オリンピックとは?
北京オリンピックが始まった。
凝った開会式に感心しながら見とれつつ
「嗚呼、どのくらいの予算を使ったんだろうか?」と、我が国の「ODA」の額と、中国辺境地帯で繰り広げられている暴動事件の事を思うと「どちらつかず」の溜息が漏れる。
北朝鮮の「マスゲーム」もそうだが、個人的にはあまり好きなほうじゃない。
「個性」が集合し、それぞれ自立しながら「縦横の繋がり」を保っていくのが「社会」と言うものだと思っている。
国家主義などは所詮は「方策」に過ぎない。
絶対的なものだとは思っていないから、いわゆる「国家主導型」の企画は、どうしてもすんなりと自分の中で「感動」に変わってくれない。
今、ロシアとグルジアの間で「軍事紛争」が起きている。
空爆による死者は、いくばくあるのだろう?。
どれだけの命が消え、どれだけの「繋がり」が掻き消えていったのだろう?。
9日は「NAGASAKI」の原爆祈念日だった。
おそらく毎年の事だと思うが、祈念式典が行われる朝、戦争で失われる命が世界中で「ひとはしら」も無い、等と言うことは無かった筈だ。
そういった中で、21世紀の超大国になるであろう中国では、自国選手のメダルが金だの、銅だのと「大騒ぎ」になっている。
選手に罪は無く、オリンピック精神に大きな誤りがあるとも思えない。
ナショナリズム丸出しで騒いでいた、某大統領の姿も、ある意味「微笑ましく」見えなくも無い。
しかし「オリンピック」というものが「スポーツの祭典」であるということは、
「より速く、より高く、より遠く」
のコピーを引用するまでもなく「進化」というものを主軸に置いたものである、ということは疑いようが無い事実だ。
これは「経済」が「発展」という主題から逃れられないように「スポーツ」も「記録」という「お化け」から逃れる事が無い「一方通行」の所業なのである。
だから「経済」と「スポーツ」はいつでも「仲良し」であり、その「大成」とも言える「オリンピック」は、
「浮世の馬鹿騒ぎ」
だと、思うのはいけないことだろうか?。
「科学文明」が新たなテクノロジーを生み、それが「武器」となって社会に「お披露目」される。
そしてそこに「経済」と言う名前の「蟻」が群がり、それらを「自己利用」し、自らの腹を肥やしていく。
スポーツ選手は「記録」や「勝利」という名前の「亡霊」にとり憑かれながら、自らの「優位性」を高めるためにスポンサーを欲し「経済」の奴隷になりながら生きていく。
こう書くとやや「アイロニー」な色が強くなるかもしれないが、あながちハズレというものでもなかろう。
「戦争」「経済」「科学」「勝利」…こういったワードが並びながら、テレビ画面に大映しになっているのが「オリンピック」なんだ、と思う。
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コメント
まあ、オリンピックゲームが開催国にとっては「国威発揚とPRの場」である事は間違い無いでしょうね。また日本のように一度「国家意識」を解体させられた経験を持つ国民としては、開催地C国の国民の熱狂的な応援はある意味不思議です。C国民は利己的な程個人主義者が多いはずなのですが、漢民族の自覚と誇りを呼び起こされた故でしょうか。
ところで、るみくすさんが一つ前で書いていた高校野球も「新設高校のPRの場」になっているように感じるのは私だけでしょうか? K高校の事件で私が気付いたのは意外な程地元(K市)の市民が冷たい反応をしていたという事でした。つまり甲子園出場に対して賛否両論だったという事です。
私自身は江戸時代の五人組のような「連帯責任」はナンセンスと考えているので、出場には問題無いと考えていました。また、過去に部員以外の不祥事で出場を辞退した高校には同情的な意見が多かったと記憶していたので、今回も同様になると予想していたのでこの結果は予想外でした。
何故か? 更にネットを調べてみると、残念ながらK高校は今回だけでなく不祥事が多いという事が分かりました。それも野球部だけではなかったのです。つまりK市民の反応は「またK高校か」というものであったといえるでしょう。
るみくすさんの地元、群馬県も、私の埼玉県も1980年代までは甲子園に出場するのはずっと公立高校でした。しかしそれ以降は圧倒的に私立高校の出場が多くなってきます。これが何を意味するのかは一目瞭然。ましてK高校は全国的にみても「野球の名門校」という評価を確立しています。
しかしながら、その評価は生徒の質的向上、教育内容の向上には繋がらなかったという事でしょうか? 少子化の進行によって私立高校の経営はかなり難しくなるという事は10年以上前から言われ続けてきました。そんな中、K高校の経営陣が高校スポーツの中で最も注目される野球での成功を目標としたのは見事なマネジメント感覚でした。しかし、肝心の「器としての高校」までは神経が回らなかったという事なのでしょうかね。
投稿: さいたま熊 | 2008年8月16日 (土) 00時56分
>さいたま熊さん
どうも今日は。
貴重なご意見、ありがとうございます。
私立高校は「学校の色」のようなものが明確でないと生き残れないところがある、と思います。
そのために「文武両道」を地で行っているようなところがあります。
スポーツも、学業も、学校側が生徒に対して「着目」していくのは、その「結果」であるところが有ると思います。
本来「精神性向上」のために存在するはずの「文武両道」ですが、その本質はなおざりになり、ただの「マネージメントのための道具」に成り下がってしまったようなところがあるのは否めません。
結果的に「落ちこぼれる」子供達は容易に「行き先」を無くし、ドロップアウトしてしまうのでしょう。
今年発覚した二件の事件は、そういった「歪み」や「格差」が生み出した悲劇と言う一面も持っていると考えています。
「成績は成長の敵」なんでしょうかねぇ?(苦笑)。
投稿: るみくす | 2008年8月16日 (土) 12時53分