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2008年10月 1日 (水)

涙くん、さよなら

坂本九の代表的な歌のひとつにこの
「涙くんさよなら」
涙くんさよなら 坂本九 歌詞情報 - goo 音楽
涙くんさよなら 坂本九 歌詞情報 - goo 音楽

が、ある。

「この世は悲しいことだらけ」
というけれど、悲しいことが起きるたびに、涙を流せていた時代はそれでも「幸せ」だったのだなぁ、とつくづく思わされる。
あまりにも悲しいこと、やるせないことが続いたりすると、人間涙も出なくなってくるようだ。

昔「年のせいかしらね…すっかり涙腺が緩くなって…」などというドラマの台詞を聞いた事がある。
その当時の私は、まだ少年であったから「へぇ…そんなもんなのかな?」と思いながら聞いていた記憶があるのだが、これには「個人差」があるのだ、ということを、この年齢になってから知った。
他人の「不幸せ」を聞いて、涙が出るのは良いことなのである。
涙が枯れた様に流れ落ちてこなくなるのは、自分が「不幸せ」だからだ、ということも知ってしまっている。


人が呆気なく死ぬ時代になってきたんだろう。
三十分前まで元気でいた子供が、次に見かけたときは「棺の中」だという「恐怖」。
買い物に一緒に出かけた息子が、唐突に凶刃に倒れると言う「現実」。
こういった「出来事」に、最早涙も出ないということに気付き、そして同時に空恐ろしくなってくる。
感覚が麻痺しているんだ。

これではまるで「戦場」ではないか?。

視野が広がり、物事の「多面性」が見えてくるに従い、本当ならば「豊かな心持ち」を持てる「熟した季節」がやってくるはずなのに!。
今はむしろ、その「視野の拡大」こそが「荒れた時代の収拾」の役目しか持てないようで
「熟す前に腐っていく果実」の様に
「燃える前に落ちる広葉樹」の様に
「常盤木落ち葉」や「病葉(わくらば)」ばかりが、散り急ぐように舞い落ちるばかりだ。


「豊かな秋」は何処に行ったんだろうか?。
はらはらと落ちる枯葉に涙する季節は、何処に行ったんだろうか?。
…いや「消えて」しまったわけでは無いはずだ、と思う。
そういう季節が私の中から「逃げて」しまったのだ。

だから…取り返しに行かなければなぁ、と思う。
このまま乾いた冬を迎えないためにも。

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2008年10月 2日 (木)

秋のうた

「千曲川~五木ひろし」
千曲川 五木ひろし 歌詞情報 - goo 音楽
千曲川 五木ひろし 歌詞情報 - goo 音楽

詩人であり、小説家でもある「島崎藤村」の「千曲川旅情の歌」を思い起こさせる。

最近はあまり露出が多くないが、私が小学校高学年の頃、歌番組にはいつも五木の顔があった。
「よこはまたそがれ」「夜空」の大ヒットで、すっかりお茶の間の顔(今や死語扱いかもしれないなぁ…)になっていた彼だったが、当時の私のハートを捕らえた(これも死語かな?)のは、この歌だった。

「山口洋子」作詞という、一連のヒット曲の中のひとつだが、オリコンで六位とあまり振るわなかった。
しかし「冬季長野オリンピック」を控えた97年には紅白で披露され「大トリ」を務めるなど、この曲が巷に深く浸透し、人々に愛され続けてきたと言うことに間違いは無い。
ゆったりと流れる曲調といい、短くも旅情を強く喚起させる詩の中身といい、やはり「名曲」の誉れ高い作品と言えるだろう。

ガキの頃から強い「流離い心(さすらいごころ)」を胸中に抱いていた私だからなのだろうか?。
寂寥に零れ落ちそうな涙をこらえながら、膝を抱え、テレビの画面を見つめていた。
思えば私が信州信濃に「異常なまでの憧れ」を抱き始めたのは、ここからだったからかもしれない。
私の中でこの歌の「風景」は、憧憬となり、心を揺さぶる「期待」となり…そして18の春の「旅立ち」へと連なっていった。

それから二十六年もの歳月が流れ、千曲川に寄り添う様に在る「小さな街」も変化してきた。
バブルの頃に建った商業ビルも、名前を変え、業種を変え、現在は空家となっている。
国道沿いにも「夢の残骸」が並び、中央商店街から人の影は消え、JRさえも高崎からの「直通便」を迎え入れることは無くなってしまった。

しかしそれでも「千曲の流れ」は昔とあまり変わりが無い。
「煙たなびく浅間山」も変わりない。
私の中に流れる「あの歌」も、何ら変わる事無く私の旅情を掻き立て続けている。
…やはり「千曲川」は、時に褪せぬ「名曲」だったのである。

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2008年10月 7日 (火)

緒形拳さんを悼んで

俳優の緒形拳さんが急逝された。
今朝のニュースを見て知った次第だが、心が揺れている。

私の世代からすれば緒形さんの存在は
「「TV」でも「映画」でも「どれかの作品」には必ず見かける」
と言っても良いほど精力的、かつ、人気が高い方だった。
その独特な雰囲気と確かな演技力は、人々の心を捉え、そして尚且つ「安心」させるものだった。
「この人が演っていれば」「この役柄でも、この人なら」
と、観衆を安心させ、得心させることが可能な人だった。


朴訥であり、そのくせ妙にナーバスな側面も見せる。
寡黙で真面目な人柄は、ご本人そのものであったような気はするが、演技ではそこに「狂気」「情熱」「冷酷」などのドロドロとした人間の「部分」も垣間見せてきた。
その一つ一つが「明確」であり、わかりやすくて、伝わりやすかった。

巷では「紙切れを重ねた様に」ペラペラと捲れる「台本のような顔」をした「俳優」が画面を賑わせている。
みな一応に「器用」ではあるが、そこに「深さ」は全く無い。
「目次」を見れば、その「本」の全てがわかるように感じられる。

緒形さんには
「怒りには怒りの頁」「悲哀には悲哀の頁」があった。
「一話分の台本」では無く、物語の「総て」が彼という役者だったのだと思う。

「緒形拳」は「緒形拳」という題名の「一大作品」だった。

…私はもっと「彼と言う本」が見たかった。


しかし、天寿と思うことにしよう!。
そもそもが彼のような「俳優」が、私の人生と「シンクロ」するように在った事そのものを享受し、感謝しなければいけないのだろう。
彼は私の「幸せの一部」でもあったのだから。

さようなら…緒形さん…。

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2008年10月13日 (月)

峰岸徹さんを偲んで

突然の訃報に驚いている。
俳優の「峰岸徹」さんが亡くなられた。
享年65才。
早過ぎる死だった。

前回で「緒形拳」さんの訃報を書いたばかりだが、今回も私にとって感慨深い出来事だった。

峰岸さんのことがマスコミに取り上げられるとき不可避なのは「岡田有希子」さんの自殺についてだ。
彼女と峰岸さんとの関係が、直接的に彼女の「自殺の動機」となったかは定かではないが、彼の「半生」に大きく影を落としてきた事に間違いはないだろう。

2008年4月。
腰痛の検査で訪れた病院で、彼は癌の告知を受けた。
それからわずか半年あまりでのことだった。

私は想う。
65年間の人生のうち、理由はどうあれ、その後半の20数年を「他者との関係の為に」心を磨り減らさざるを得なかった男の生き様を。
それはひとえに「家族との歴史」でもある、ということも。


死は誰にでも公平に訪れる。
そして当人の死によって悲しむ存在が居るということも。
「今更ながら」であり、長く考え続けてきたテーマでもあるが、再度重複してみたい。

「何故、飛んだ!?」と。

彼女が親しんできた存在である人も、今現世を離れ、新たな旅に向かおうとしている。
彼と彼女の「人生」は、結局のところ蚊帳の外である私には「永遠の謎」として残っていくのだろう。


最後に峰岸さんへ、ささやかではあるが言葉を送りたい。

「頑張ったね、ご苦労様」と。

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2008年10月18日 (土)

見えない場所

「秋のうた」のところで書いたけど「五木ひろし+山口洋子」コンビの楽曲が好きだ。
「長崎から船にのって」「夜空」「よこはまたそがれ」…彼の一番油が乗っていたであろう時期、ヒットした連作には、彼女の歌詞が多かった。

この「山口作品」の特徴は「劇場形式」にある。

たとえば「よこはまたそがれ」などでは「よこはま」「たそがれ」「ホテルの小部屋」…と「実体のあるもの」の羅列が続いている。
「どこかの街で」とか「あの場所で」とか言っていないのだ。
まるでオペラのセットのように「舞台設計」を見せながらの展開が特徴的なのだ。

思えば「昔のうた」は、みなそうだった気がする。

「お富さん」
お富さん 春日八郎 歌詞情報 - goo 音楽
お富さん 春日八郎 歌詞情報 - goo 音楽

などはもうのっけから「場の説明」に入っている。
そうでなくとも「リンゴの唄」などは
リンゴの唄 並木路子 歌詞情報 - goo 音楽
リンゴの唄 並木路子 歌詞情報 - goo 音楽

「赤いリンゴに…」と具体的だ。
そこまで古い唄でなくとも、少なくとも30年前は歌の「詩」は具体的なものだった。
「何が、どうなり、どうなった」という流れの中で作られていたのだ。

最近の曲を聞いたり、歌わなくなって久しい。
それは何故だろうか?と考えてみたとき、ひとつには「複雑な曲調」というものが理由だろう、という結論には行き着いた。
しかし「曲だけじゃないだろう?」という思いは残ったのだが、その理由がやっとわかった。
それは
「歌詞に実感が無い」
からだったのだ。


「触れたくても触れられない」ものが、最近の歌詞には多すぎる。
実感を伴う「物」が、詩中にほとんど存在していないからだ。

例えばこんな歌詞があったとする。
「あなたの中に私がいるのに、あなたは何処を見てるの?」
さてさて、どうでしょうか?。

「あなた」って誰よ!?」「私って誰?」ってことになりますよね?。
勝手に「あなたと私」を、個々人が「自分で変換」して悦に入ってれば「ジーン!」と来るんでしょうが、そういった「対象」が無い人には、どうやっても響かない言葉の列です。
遠い記憶から「引っ張り出して」も、所詮は過去のことですから明確じゃないんですよね。

それに引き換え
「実体が伴っているもの」が作中に出てくると、人は「想像力」で場面を構成していこうとします。
さだまさしさんの「檸檬」

檸檬(アルバムVer.) さだまさし 歌詞情報 - goo 音楽
檸檬(アルバムVer.) さだまさし 歌詞情報 - goo 音楽

などは「具体的な名称を入れつつ」も「効果的な比喩を入れる」ことで、歌中の「情景」や「速度感」まで、聞き手に伝えようとしています。
これだと例え「湯島聖堂」を見たことが無い人でも、その「情景」が目に浮かぶように導くこともできるわけですね。
彼の「天才」の所以でしょうか。


「この曲、私の曲だ!」って言って、CDショップにアルバムを買いに行くティーンはきっと多いのだと思います。
自分が「シンパシー」を感じたものが、素晴らしく映るのは当然といえますが、しかし考えて欲しい!。
「浮き立つ言葉」が必ずしも「責任がある言葉」と言えるのかどうか、を。

実体を使う、ということ、それは即ち「存在に対して責任を持つ」ことに他なりません。
さだまさしさんも、ある意味ではそのことで世間(マスコミ)からバッシングを受けたのだといえるでしょう。
「関白宣言」という「リアリティあふれる言葉」が、聞き手の神経…琴線に触れたのです。
そしていろいろな「音色」が出た。
しかしそれらはあまりご本人にとっては「快感」でなかったのは確かでしょう!。

つまりそういった「ところ」から逃げるには「実体を出さない」という手段は大変有効です。
だって「攻めようが無い」わけですから。
ある意味「卑怯な作戦」と言っても過言じゃないと思います。

しかしそれは逆に捉えれば
「永続性の放棄」とも言える訳です。
だって「私の歌」と言って、CDを買いに走った当人も「いつまでもそのまま」ではありませんから、当然「考え方」は変化するわけです。
ティーンのために「コンビニエンスな」曲を作って一発当ててサヨウナラ…そんなもんで良いんですか!?。
私はこの国の「文化」に最近非常に懐疑的になっています。

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2008年10月21日 (火)

「ズル」を「ズル」と言っても良いのか?

相撲界の「八百長疑惑」が世間を賑わしている。

しかし困った事にマスコミや、大方の世間の反応は「八百長は是か否か?」に偏っている気がしてならない。
「金払ってるんだから、真剣にやれ!」ってな事らしい。

だったら「金払わない」システムで運営すればよろしい。
純粋にアマチュアイズムを貫くか、さもなければ「社会福祉法人」かなんかが…NPOでも良いなぁ…とにかく「無報酬で」やれば良いのだ。
力士への報酬は基本的に、勝っても負けても「同じ」で、番付だけが上がる。
特典はなーんにも無し!。
それでも「やる!」って言う人だけ、やれば良いんです。

相撲はそもそもの起源が「神前披露」であり、神様を慰め、たたえ奉るものなのだし、そんな場所に「穢れ」であるところの「お金」を持って来る事自体、おかしいんじゃないかな?。
勝ち取るのは「名誉」だけで良くない?。
「プロ化」したことそのものが、今回の「疑惑」を生んでいる根本なんだ。


私見だけど「八百長」は「興行」というものには「つきもの」なんだと思う。
誰だって「私心」はあるし、なんらかの「障害」があれば、お金で解決できるならしたい!と思うだろう。
贈収賄に関わらず、お金の存在というものは便利なものだ。

「大怪我=廃業」では、いくら力士の志望者がいても全然足りない。
下手すりゃ勝負の世界だから「アイツ、やっちゃえ!」てな事にも繋がるだろう。
先の「力士の暴行致死事件」にせよ、そういった「勝負事の世界」のダークサイドが表面化してきたものだ、と考えるのが納得いくところだと思う。

「八百長」は悪習かもしれないが、反面「相撲興行」というものの生み出した「鬼っ子」とも言える。
「有るか無いか」なんて、どーだって良いことなんである。
八百長が発生する「メカニズム」の解明と、システムの分析が出来れば、自ずと「可能性高し」となるわけで、ことさら有無をとやかく言うのは「逃げ」だとしか思えない。

相撲が我が国の「文化」だ、と胸を張って言いたければ、純然たる「事業」としてやるべきであり、また同時に国民に「広く開かれ、馴染み有るもの」にするべきだろう。
「プロ化」というものが、一体どう言うものなのか?ということを、キチンと考えておかないと、足下すくわれまくりになるだろうね。

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2008年10月22日 (水)

嗚呼、校歌!!

急な情報が入ってきて驚いた。
なんと「我が母校」が廃校になるという!。

「そんな馬鹿な?」
…ありえない。
だって、過疎地帯に有る分校じゃあるまいし…そんなことって?。

しかしどうやら事実らしい。
「ひとつの町に3つの小学校」は、確かに過多なのかもしれない。
「少子化」の影響だろう。
確かに道を行く「子供達の数」は少なくなったな、と思ってはいた。
それを「遊びがイン・ルームになったからだろう」と思ってはいたし、それも事実なのだろうが「絶対数」の減少は、私の想像を遥かに上回っていた、と言うことだろう。
何にせよ「寝耳に水」の事態だ。


小学校生活に深い思い入れは無いのだが「校歌」に関しては、ある。
「小中高」を過ごした学校の校歌として、一番好きなのは「小学校」の校歌だった。

校歌と言うと何というか「自校の象徴」みたいな感じで、ある意味
「ややエキセントリックな感じがする」
ものが多いと思う。
例えばサビの部分がやたらと盛り上がる感じのヤツだったり、最後に校名を何度も「復唱」させたりするヤツだ。
アレはどうも受け入れ難かった。
「意を煽る」っていうのかな?…国威発揚じゃないけど、なんかそんな感じが嫌いだった。
我が母校の校歌はそうではなく、詩の中身も、曲調も、全体的に「大らか」で、小学生が高らかに歌うには「もってこい」な感じがするものだった。


「校歌」というものには「教育者」の…というか「大人の」意思のようなものが強く反映されると思う。
実際に歌うのは子供達だが、大人は「こう有れ!」という「指標」を歌の中に刻み付けようとする。
だから校歌には、それが作られたときの「指導者」の「資質」や「意思」が反映されているのだ、と思う。
私は幸いにして、エゴイックでも、高圧的でもない歌を、高らかに歌いながら、すくすくと成長できたようだ。
これは先人に感謝せねばいけないのだろう。

しかし長い歴史が終わるとき、この「校歌」も「思い出の中」だけの存在となっていく。
これはやはり悲しい事だ。

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2008年10月27日 (月)

「スチームボーイ」見ました

昨日はTVで「スチーム・ボーイ」の放映を見た。
…面白かったなぁ。
「大友 克洋」の原作や作画作品は、そのほとんどが面白い。
「アキラ」にせよ日清食品とのタイアップである「フリーダム」にせよ、面白い。
最近のジブリ作品の「熱」が薄くなってきたのに対して、大友アニメはその熱が衰えない感じだ。

「…この鉱水が溜まるまで、何十年かかると思う?」
親は子に聞く。
「50年くらいでしょうか?」
「…いや、百年はかかるじゃろう」
…冒頭のほうで、こう言った会話がなされる。
「スチームボール」…高密度で、高圧縮が可能な液体が無いと、実現不可能な技術。
それを可能にするのが、この「鉱水」なのだ。

物語は化学をめぐる「人間の愚かしさ」を問う。
テクノロジーが進んでいくたびに起こる、戦争という「日常」。
現実世界の我々が直面している問題を、「事実」と重ね合わせながら、物語は展開する。

特殊で貴重な材料を使うが故に…またその「強力さ」故に…個々の思惑が絡み「スチームボール」は争奪の対象となる。
その「現場」をつぶさに見てきた「主人公」は、テクノロジーの「光陰」を知っていく。
そして自分が「目指すべき道」を知る。

いろいろなファクターが重なり合い、同時進行する模様が面白い。
戦争と政治、科学と生活…遠くにありそうでいて、実はいつもすぐ「隣」にいる…そういったことを思い起こさせてくれる秀作だ。


「スチームボール」とは、実は「世界というものの象徴」なのではないか?と思う。
高密度、高圧縮…人間の放つ「いろいろなもの」は「地球」という「容器」の中に、まさしく「そんな状態」で閉じ込められているのだろう。
「世界大戦」というものは、そういった「高過密化状態」に人間が陥ったときに発生する「事件」なのではないか?。
「50年…いや、100年?」という問いかけは、そういったことを暗示しているものだと思う。
…そしてその「使い道」をきめるのは、いつだって「一部の人間」だということも!。

キャラクターが「立っている」ことも、この作品の秀逸なところだ。
みながみな、立場が明確であるために、キャラが際立って、記憶に残りやすい。
そんななかでも一番「面白かった」キャラが「スカーレット・オハラ」(風と共に去りぬ…だね?)という「女の子キャラ」。
物語の中核からは少し外れてるくせに、なぜかとても印象的だ。

スチームボールの開発を手伝った「武器商人」の娘である彼女は、ハッキリと「お嬢さん」である。
気位は高いが、実は「何も知らない」…世間知らずの女の子。
最初の登場シーンで彼女は自分の「愛犬」を「まわりに吠えた」という理由で殴りつける。
彼女は「支配者たる人間」としての振る舞いを重要視しているわけだが、内面は意外なほどに「ナイーブ」であり、感受性が高い。
後に破壊される「万国博覧会」の会場を、深夜に主人公と訪れた彼女は「思い出が破壊される光景」に強い怒りの表情をした。
その顔はまさしく、彼女が戒めていた「愛犬」の顔つきにそっくりだったのである。
「大事なものを奪われる怒り」を、支配者の一族足る彼女が知った瞬間だったのだろう。

そう…人は「立場」でいくらでも変る「愚か者」だ。
それは国であっても、死の商人であっても、何ら変わる事が無い。
今回の「経験」で「そのこと」を学んだ主人公とスカーレットは、自分たちが「いくはずだった未来」に背を向け、独自の道を模索し始める。
その「カット」が、エンディングでは紹介されているようだった。

「ウイリアム・ターナー」という、英国の絵描きがいる。
彼の代表作「雨、蒸気、速度」は、驟雨の中を疾走する蒸気機関車の風景画だが、人が「科学文明」というものに傾倒していく姿を印象的に描いているものだと思っている。
汽車が電車となり、リニアモーターカーになろうとも「前進」することを目的としている事に変りは無い。
…時には「昔」を真剣に語ってみたい、と私は最近良く思うようになった。

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2008年10月29日 (水)

暴言は情熱に非ず!

「Qちゃん」こと「高橋尚子」選手が引退した。
本来はその事を書きたかったのだが、スポーツ選手の事は「専門外」もいい所なので、今回はパス。
代わりに、といってはなんだが「大阪の有名知事さん」への苦言を書こう。

彼の知事としての姿勢、手腕などは所詮私のようなものには判断のつけようが無い。
他県の人間であるし、政治の事はとんとわからないし。
ただ、私のような人間でもわかることは有る。
たとえば「傍若無人」の意味についてくらいは。

事の「良い悪い」を論じるとき、例えそれが「日常的な」些細な出来事であっても、相手に対して「怒鳴る」「汚い言葉づかいをする」というのはご法度と言って良いことだろう。
子供の教育上も、大変よろしくない。

件の知事殿は
「クソ○○!」というようなことを「公共の場」で平気で仰る。
彼が相手する団体や対象者が、いかに「問題が多い」ものであったにせよ「クソ」呼ばわりは常軌を逸していると思える。
しかもそれみな「公共の場」でである。

例えば、彼が私の前で、私が大切にしている人間を「クソ呼ばわり」したなら、私は「口より手が早いほう」だから、彼に一発お見舞いするかもしれない。
彼は私より若いし、多分平気じゃないか?と思う(笑)。
…ま、それは「アメリカンジョーク」ということだけど、彼が実際にしている「行為」については、もう「ジョーク」じゃ済まされない。

TVに出演されている頃から「失言」が目立つ方だったが、あれは単純に「タレント業」としてのハッタリなんだろうな?…芸だなぁ、と思っていた。
また「弁護士」という役職柄「法の庭の住人」として、特有の世界観があり、気質があるのだろう、とも考えていた。
やり方そのものは、あまり「好きにはなれない」が、こと「裁判に勝つ」というのが彼の仕事なのだし、そのことに言及する気は無い。

しかし実際「公人」としての立場に現在彼は在るわけだし、代表として府政を背負って立っているわけだから、そも「暴言」は許されるべきものでは無いだろう。
政治家どうしでの「きったはった」は、まだ論議の「熱」ということで、少しは許すことも出来る。
しかし他団体への「暴言」は、ことはどうあれ「問題」だと考える。

政治は「まつりごと」で「おさめる」わけだから、その「場」が汚く、不快であっていいわけが無い。
まぁ、二億歩ほど譲って(笑)実際の政治の場が「汚い」ものであろうとも、それをわざわざ民衆に「披露」することの意義は何だというのか?。

「劇場型」の手管を使っての「パフォーマンス政治家」がやたらと多くなった。
「小泉政権」は、その最たるものだが、その「劇場」に来て笑うだけ笑って帰っていく客には私はなりたくは無い。

「演劇者」は「ああ、アホな客ばかりやぁ」と言い、客は「アイツまたアホやっとるでェ」と冷めた笑いを送る。
…こんな世の中こそ「クソタレ」じゃないのか!?。

…ああ、いけない、いけない。
批判するほうは「逃げ」ちゃいけないんだよね?。

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