« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月 2日 (土)

490円

「♪よんひゃくきゅうじゅうえーん」

…「私は犬になりたい \490」
つまり「490円でどれほどの事ができるのか?」ということに言及し、現代のお父さんたちの「お小遣いの少なさ」を嘆いた曲なのだが…嗚呼、さだも「関白宣言」を歌っていた頃の勢いはどうしたのだろうか?。
「俺の愛する女は 将来おまえただひとり!」と歌っていたはずばんど…いや「はずなのに」…。
今、君はなんと「雑種で良いから 愛される存在になりたい!」と「犬になること」を所望するようになってしまったのだ。
嗚呼、嘆かわしいかな!。

そう、君はまるで「ユニクロの特売品」のような金額で、1日を一喜一憂する存在になった。
バブルが弾け、シワシワになった君は、実籾に行って何をしようというのか?。
駅前を散策しようとでも言うのか?。
帰りの切符が買えない君は、ソフトバンクの携帯で家人にこう言うのだろう
「金送れ!」と。
そして家人はこう言い返すのだろう
「…今度いつ帰る?」と。
君は駅前に立つ案山子のように、呆然とするだろう。

この平成の世に来て、関白は遂に失墜した。
昔懐かしく、故郷の味噌汁の味を思い出し「でも、味噌汁…」と牛丼屋の椅子の上で考える。
「俺だって…人間だ…牛丼に卵が無いような人生なんて真っ平だ!」
おお…「♪狼に~なりたい 狼に~なりたい ただ…一度」
正面に座っている若い兄ちゃんの「焼肉定食」をじっ、と見つめながら、自分の並盛が早く来ないかと忸怩する。
…でも「♪750cc(ナナハン)持てない」君は、フェアレディ…ではなく、10年落ちのカローラの社用車に乗って、取引先へと急ぐのである。

嗚呼…故郷の足寄に、春はまだ来ないのか?。
相変わらずの田舎町なのだろうか?。
あの頃が青春だった。
巡る季節の中、風車が回るように、若い時間は過ぎていった。

いつも立ち寄る飲み屋で、ほろ酔い加減で昔語り。
君はいつしか眠りにつく。
…冷たい駅舎のベンチの上で。
「お客さーん…なんだ、寝ちまったんすか?」
…夢は神社の境内で遊んだことか、はたまた縁日の妹の浴衣姿か…。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 7日 (木)

同い年

村下孝蔵さんが亡くなって、今年で10年目だという。
それにちなんで、ということなのか
「未発表曲2曲を含む」アルバムが発売されることになった。
「GUITAR KOZO」
(ギター小僧、と読むらしい…「孝蔵」のローマ字表記にもかけている)
という。
…買おうか、買うまいか、思案中だ。

村下孝蔵は「苦労の人」である。
デビュー前はピアノの調律などをしながら、プロ・シンガーを夢見てきた。
そのデビューそのものも比較的遅く、音楽的才能は凄まじいものがあるのに、その「地味」さゆえか、あの大ヒット曲「初恋」が売れるまでは、世間的にはほとんど無名だった人である。

しかし「初恋」のあとの躍進は素晴らしいものがあった。
フォークシンガーとして世に出るには、タイミングが著しく悪かったにもかかわらず、彼の歌はどこかしらの媒体で使われ、またいろいろなシンガーが、彼の歌をカヴァーしていた。
叙情的な歌詞に、ポップでなおかつ何処かメロウな色合いを見せる曲は、日本人の根底にある「寂び」を愛でる心とシンクロしたのであろう。

彼の活動期間は、不運ゆえに短く、だからこそ「濃厚」でもあった。
46歳という若さで亡くなられた事は、彼の「決して平坦ではない人生」を象徴させるようで、悲しくもまた運命的でもある。


5月となり、私の同級生たちの中には46歳を迎えた人もいる。
色々な人生模様があったはずだが、そのことに思い巡らしつつも、不思議と「想い」は過去へとフィードバックされていく。

「♪五月雨は みどりいろ…」

「初恋」という「ときめきのメール」は、時空を超えてまでも、今でもこの心の中に届き続ける。
村下さんは惜しむらくも早くに逝ってしまわれたけれど、彼が残した「子供たち」は、今でもちゃんと「軌道衛星」のように、この世界を駆け巡り続けている。

彼とやっと「同い年」になったのだなぁ、と思う。
それで彼のことが推し量れるわけでもなんでもないけど、10年前に知らなかったことが、今はいくつかわかったような気もするから…そのことを彼に報告できるようになった、というのは嬉しい事だろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月11日 (月)

後戻り無き時間

最近「寂報」が多い。

「忌野清志郎さん」も、元気な姿を見てから「このままいけば、きっと」と思っていたけど、叶わなかった。
享年58才。
特別に彼のファンというわけではなかったけれど、彼が「ロードスポーツ」に乗り始めてからは、なんとなく興味が動いていた。

「ロッカーが自転車?」
それも「目玉が飛び出るくらい」高価な自転車が存在するなんて、このときに初めて知ったのだ。
彼のイメージと超高価な自転車、という取り合わせが、何とも言えずに不思議で、そして微笑ましかった。
このことが無ければ「硬派なジャパン・ロッカー」というイメージに占有されてしまって、他の部分まで目が届かないままだったに違いない。
メイクの下の清志郎さんは、優しい笑顔の似合う人だった。


そして今日、作曲家の「三木たかし」さんが亡くなられた。
享年64才。
清志郎さんと同じく、ガンとの闘病の果ての死である。

三木さんは作詞家の「阿久悠」さんや「荒木とよひさ」さんと組まれ、歌謡曲の黄金時代を築き上げてきた方のひとりである。
石川さゆりの「津軽海峡冬景色」「能登半島」やテレサ・テンの「つぐない」などの大ヒット曲を作り、バラエティ番組から発信された「わらべ」の「めだかの兄妹」なども手がけている。
私の十代ただなか、青春時代に流れていた曲のかなりのものは、三木さんの手によるものが多いと言えるだろう。

三木さんの曲の特徴は、カラオケで歌うとすぐわかるけど
「無理が無い」ことだと思う。
こういうと「語弊」があるかもしれないけど、女王「美空ひばり」の曲が、カラオケで歌うにはあまりにも技術を要求する「高スペック」な歌が多い(…まぁ、作り手の気持ちもわかるけどね)ために、あまり上位に上らないのにくらべ、三木さんが作った曲は歌いやすく、そして気持ちが良いから、スナックなどに居ると必ず誰かしらがリクエストしている。
メロディアスで、大きな波は無いけど、その場で佇んでいると時間を忘れさせる「春の小川」のような曲を作れる人だった。
本当に惜しむらくも、自ら命を絶ってしまわれたが「わらべ」同様「欽ちゃんファミリー」の一人であった「清水由貴子」さんへも「お元気ですか」という名曲を捧げている。


あの頃、遠い存在だった20才近く年の離れた人達が今「急逝」という形で終わるのをリアルタイムで感じるのは、なんとも寂しい…という以上に「儚い」というふうに感じられて仕方が無い。
自身の「記憶」の中では、まだ青春の輝きを誇って、光り輝いていたはずの存在が、急速にその身を酸化させながらボロボロの姿に変わっていく。
もっと、なぜもっと「ゆっくり」と時間は流れてくれないんだ!!と、どこか憎しみにも似た感情が、慟哭となり虚無の闇に消えていく。
時間の流れは変わらない、というが、それは違うのじゃないかな?と「見えない時代の闇」を睨めつけるようにしている。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月13日 (水)

若者撃退!?

「モスキート音で若者撃退」などという試みを、東京都は足立区が実験を開始するらしい。

しかし…「蚊」かよ!?ってな感じで…。
…なんというか、最近の行政レベルというのはそんなもんなのかい?と区役所の窓口で職員に話したくなる気がする。

「違うだろ?あんちゃん…エェ、そりゃあ蚊トンボみたいな生活(くらし)かもしれないよ?…でもね、アイツラだって人間様よ?…ドブ水飲んでるボウフラと一緒にしちゃあいけねえや?…な、さくら!…兄ちゃん曲がったこと言ってるかい?」

…あの世で寅さんも言ってるぜ、きっと。


最近こっちでも増えてきたのが「青色蛍光灯」の街灯。
これも「性犯罪防止」の為、ということで、あの「青い光」を見てると「ムッシュがムラムラ」しなくなって、その気になら無くなるらしい。
でもね、地方人は「自家用車」というものを持っているのよ、かなり。
だからこれも無駄足だと思う。
あの悪名高い「大久保事件」だって、自家用車が無ければあれほどの広がりは見せなくて済んだはずだ。
車という空間は、人気さえなければ立派に「密室」と同じだ。
「走る密室」と言っても良いかもしれない。
コンビニ密室、だよね。
だからムダ、はっきり言って。


「その場主義」なんだよね、こういうのは。
その土地が無事ならそれでいい。
他の場所の事なんか知らない、どうだって良い。
…昔だったら「若者撃退」なんて書いたら、若者も反発したし、若者以外の方々も「そりゃ大人気無い」と眉をひそめただろう。
それが無い、もしくは希薄、ということは
「もう、そんなもんどうだっていいよ…カラスの勝手でしょ?」
…ということなんだろうな。

昔、ドリフの「全員集合」の名物コーナーだった「合唱団」。
あそこで「志村けん」が歌った「七つの子」の替え歌。
当時「出鱈目を子供に教えないでくれ!」というクレームが番組に来たことがあって、ちょっとした話題になったが、あの頃の「若者」だった私には、その「真意」を汲むことは出来なかった。
「いいじゃん…これはこれでしょ?」
そう…確かにそう呟いていた。

もちろん、今でもそれはそうだよな、とは思うけど、あの頃よりも確実に年を重ねてきた私には「違う一面」を、もう無視することは出来そうも無い。
…もし、あの歌が「カラスの勝手」ではなくて、もっと別な、ちゃんとした態を持った詩がついていたならば、番組への「苦情」もかなり減ったんじゃないか、と。
あまりにも直裁、かつ単純に「勝手でしょ?」と言い切ってしまった!というところに「日本人の人情」が傷つけられてしまったんじゃないかな?と思えるのだ。

「勝手でしょ?」には、確実な「毒」の臭いがする。
当時、我々の茶の間に居座ったテレビからは「シラケ鳥」が飛んでいったり、カラスが「阿呆、阿呆」と言いながら逃げていったりする姿が流れていたんだなぁ。
その「結果」がコレかい!?というのでは、なんとも情けないやらで…わが身細る思いだ(無理だけどさ)。
…シラケ世代がゆとり世代に説教するときは、よくよく考えてからじゃないとね、駄目なんだよな。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月17日 (日)

佐久バルーンフェスティバル

久々に写真メイン。
「佐久バルーンフェスティバル」です。
P5050521

長野県は佐久市で、すっかりおなじみになった行事といっても良いでしょう。
今回は撮れなかったけど「夜間係留」…夜に留め置かれた気球は超巨大な「提灯」みたい!。

P5050582

今回の気球は「競技気球」です。
「マーカー」という紐付きの錘を、いかに地上に書かれた「バッテンマーク」に近く落とせるか、というのが基本中の基本。
だけど気球には舵も無ければエンジンも無いので、すべてはパイロットの「風読み」にかかっているわけです。

P5050629

風が無いときには、マーク上空から文字通り「急降下」してきます。
気球の中の「熱気」を抜くだけなのですが、音も無く降りてくるので「あれれ?」という感じで、体感的には相当早くて「落ちてくる」という感じがします。

P5050633

個人的には、長野県の人は「お祭り好き」だと思うんですが、佐久の会場はいつ行っても雰囲気が良くて好きな会場です。
パイロットを「のせて」その気にさせてくれるから、パフォーマンスが良くて、地上ぎりぎりのアプローチもしてくれるんじゃないかと思ってます。
今回もバッチリ!楽しかったです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月20日 (水)

新型インフルエンザ

どうも情報が錯綜しているようなので、この場でも触れておくことにした。
何事も「デマ」というのは怖いので、本当にささやかだが「新型インフルエンザ」の「さわり」について書いておく。

今回の新型…少し前は「豚インフルエンザ」と言っていたけど…これが「風評被害を呼ぶから」という政府の達しのおかげで「新型インフルエンザ」と名称変更したわけだが、どうやら「風評」の始まりは「これが原因」になっている部分があると睨んでいる。

というのは「新型」というだけで「豚インフル」と「鳥インフル」が混ざって一般人に認識される結果をよんでしまった節があると思われるからで、本来「弱毒性」であるところの「豚インフル」が、強毒性で致死率も半端無く高いと言われている「鳥インフル」と「同じようなもの」という「偽認識」を一般人の間に生んでしまったのではなかろうか?。
実際にネット上での「質問コーナー」などを見ると、そういった「デマ」を信じている人が予想以上に多いことに驚かされる。

「鳥インフルエンザ」は、今のところ「人から人への感染」は確認されていない。
なので「強毒性」であれ、爆発的流行を生む可能性は現時点では皆無だ。
ただ、それが「いつになるかはわからないが、危険性が無いわけではない」から注意喚起がなされていたわけなのである。
それが今回の「豚インフル」の世界的流行で、いつの間にか情報が混乱し、オマケに名称を急に「新型」と変更してしまったから、あまり知識を持たない人たちが吃驚し、ヒステリックになっているのだろう。


「豚」という動物は、本来の組成が人間と近い動物なのである。
だから「豚に人間の臓器を移植して取り出すことで、臓器の製造が可能ではないか?」という研究も為され、一定の効果が出ているくらいだ。
なので「豚インフル発生」という一報を聞いたときに私は「ああ、これは流行するな」と思ったし、人から人への感染も十分ありえるだろう、と思っていた。
そしてそれは実際にそうなったし、嬉しい誤算とすればそれが「弱毒性」だった、ということで、実際に「既往症」として、肺などに重篤な疾患が無い人の場合は、生命の危機を感じる必要はとりあえずは無いのだ
だから肺結核とか、AIDSとか、肺がんとか、そういった疾患を持たれている方の中で、特に重篤化している人の場合は要注意だが、通常の場合は「季節性インフルエンザ」の備えと同等でまったく構わない。
政府もようやく昨日あたりから「TVCF」を流し始めているが、やや遅きにあるな、という気もしている。
今後はキチンと熟慮の上、検討を深めた上での迅速な対応をお願いしたいものだ。


また最近の報道で「こりゃ変だろ?」と思うのは「マスクの効能」についてである。
マスクはあくまでも
「自分のツバなどの飛沫を遠くに飛ばさないため」
「咽頭内や気道内などの乾燥を防ぎ、ウイルスの増殖を防ぐため」
などに着用するためのものである。
ウイルスの「侵入を防ぐために」有効なのでは断じてない!。

風邪などの原因となるウイルスの大きさは、マスクが綿などの一般的なものである場合
「東京ドームにバスケットボールくらいの大きさ」
の比率と考えていただければ宜しい。
ぜんぜん、ブロックしないのである
高機能マスクでも、ウイルスの大きさに比すれば、それはまるで「ザル」なのだ。

まるで「マスクさえしてればかからない」みたいに、マスクの買い急ぎに終始する人が居るが、そういったものはマスク製造会社に年末ボーナスをいっぱいあげることになる(まぁ、それはそれで良い事だと思うけどさ)だけなので、自制が必要だろう。
なによりの防止策は「人ごみに行かない」ことで、なるべくならば「買い物の回数を減らすこと」などで対応していきたい。

パチンコ好きな人、学校が休みだからといって街に繰り出す中高生「要注意」ですぞ!!。
ともに「あまり嬉しくない結果」を社会によびますので、どうか、どうか、ご一考を関係者各位には呼びかけたい。


他にも書きたいことは色々あるけど、また何かのときに書くことにします。
一応「福祉、医療関係に長くかかわってきた」自負がある私ですから、まるきりの出鱈目は書いておりません!。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月21日 (木)

マスコミ感冒

こちらを見て欲しい。

まさしく同意。
最近の日本人は「インフルエンザ」に踊りっぱなしだ!!。
マスクの買占めに始まり、不確かな知識に基づく妄信…マスクをしてればウイルスは入ってこない!とか、なんとも酷いものだ。
これでは確かに「経済的悪影響」というのも頷ける。

TVに映る人は、こぞってマスク、マスク。
おまいら「マスク星人か?」っての!。
こういうとき、ホントに国民性というか「地」が見えちゃうんだよね、やっぱり。


もう「水際防止」政策を講じている場合とは違う。
感染した人を隔離するような方法は、海外渡航者以外に適用するべきじゃないだろ?。
それよりも「熱が出たらはよ病院」だし、さっさと薬を飲んで家で寝ているのが一番良い。
1週間我慢すれば熱も引くし、家族間感染も注意しだいでかなり防げるんだから。

嗚呼、ホントにパニックになりやすいね、この日本人ってヤツは。
「インフルエンザA」より怖いのは「血液型A」なのかしらん?。
…ああ、情け無いったら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月23日 (土)

「¥490」の系譜

ココログニュースにこんな話題が出てたから、もう2回もネタにしてるけど、もう一回書こうかな?。

いわゆる「一般人」の方々には知る由もないことだが、今回のさだまさしのソフトバンクCM曲「私は犬になりたい~¥490」「さだの作品の一連の流れ」の中にあるのだ。
そしてその「源流」は、あの大ヒット&大バッシング曲「関白宣言」に始まる。

当時まだ若かりしさだまさしが世に問いかけた曲「関白宣言」(1979年)は、日本の多数の女性に「怒り」を、そして多数の男性に「感動」を与えた。
題名どおりの「いわゆる男のありよう」を素直に刻み付けた詩は、あまりにも「毒」が強かったようだ。
社長業を兼任する立場でもあるさだは、その「あまりの反応の大きさ」に止む無く歌詞の「自主規制」を始めることになってしまった。
歌いながらところどころで「うにゃむにゃ」と口澱む様は、彼特有の「ユーモア」に見えなくは無かったが、内心はいかばかりだったのだろうか?。
怒りながら、泣きながら、情けなくなりながらも歌い続けていたのではないだろうか?。

さて、その「苦い経験」から、彼は後に(1994年)「関白失脚」という歌を作った。
「関白宣言」から後のこと、すっかり「関白」から落ちてしまった男の悲しい「本音」が綴られたエレジイである。
詩の中では「ポチ」という名の犬が出てきて、主人公と一緒に昨日のカレーを食べる、という切ない情景が描かれている。
これが今回の「私は…」への系譜となり、そしてこの「ポチ」は生まれ変わって「白戸家のお父さん」となり、関白を復活させたのだろうか?。
私はそう信じている…うん、そうだそうだ(涙)。


さだの作品には「肉親愛」というものが、大きな流れとして存在している。
「案山子」「椎の実のママへ」「精霊流し」「転宅」「退職の日」「夢一匁」「寒北斗」…数え上げればきりが無いくらい、さだの作品の「大きなファクター」を占めているのは肉親愛であり、一番身近な人間への揺ぎ無く、そして大きな愛情そのものだ。
今回の「私は…」が、だから単純な「ペーソスだけのギャグ漫画」みたいな、そんなものではないというのは「ファン歴30年」の私が良く知っている。
肉親愛に溢れたさだの作品群の中での「傍流」かもしれないが、しかしその流れが同じ一滴から育まれてきたのは言うまでも無いことだろう。

だから白戸家のお父さんが呟く「そこが さだまさし!」という一言は「重い」のだ。
(…関係なかった、とも言ってるけど)
「父親」という存在が、今と比較にならないくらいに重かった昔、その存在を畏怖しながらも愛し続けてきた男が作った詩なのだ。
本当ならば490円で売ってしまっても良い物ではないだろう。
…いや、だからこそ「490円くらいの株価なんだよね」と、さだは自虐的に言いたいのかもしれない。
嗚呼…お父さんは続落なんだぁ…。


出来れば今回のCDを買った人には、さだの過去の作品群を聞いて欲しい。
さだの歌う世界には、昔ならば「当たり前」だった「家族の姿」が残っている。
「犬になりたい」と呟くお父さんは、詰まる話「犬でもいい 愛情が溢れた家庭が欲しい」と心で泣いているんだろう。
「関白宣言」は、潰えた。
代わりの「家族間安全保障」を受諾したお父さんは、実籾へ果たして行くのだろうか?。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月25日 (月)

おいしい野菜

最近はいわゆる「無農薬野菜」とか「減農薬野菜」とかを食べる機会が増えた。
職場のすぐそばで、これらの野菜が売られてて、売り場の兄ちゃんと仲良しにしてもらってる関係で試食させてもらったり、時には「お手伝い」をした報酬として貰ったりするのだが、これが「目からウロコ」の体験をすることが珍しくない。
農薬の使用の有無ばかりでも無い気はするが、確かに「味が違う」野菜はあるのだ。

「ブロッコリー」を貰った事がある。
普通スーパーで買ってくるブロッコリーは、特有の「青臭さ」というか、独特の味がする。
あの「味」が、特に子供のブロッコリー嫌いを招いているのだが…これがなんと「ほとんどしない」のだ。
そして不思議に「甘い」。
「あれ?ブロッコリーって、こんな?」とビックリ。

「お米」も違う。
「こしひかり」というと新潟県中越地方が有名だが、こちら群馬でも本当に少量ながらとれる。
これも本家に負けず旨い。

卵も面白いものが有る。
普通「おいしい卵」というと「黄身が濃厚」というのが常識になっているが、この卵は黄身の色が薄い。
見た目と同じく「濃厚な味」はしないのだが、卵特有の「生臭さ」が薄くて、スッキリとしているのだ。
卵かけご飯や洋菓子を作るときも面白い効果が狙えると思う。


群馬は色々な野菜が採れる場所だ。
ただ「収量」が、土地の関係もあって、少なめなのだ。
だから「大規模農家」というものは、寒冷地の「キャベツ」以外はほとんど無い。
ゆえに専業農家が経営しづらいところがある土地柄だと思う。

しかしそれは逆を言えば「ブランド野菜」の生育が行いやすい、という面にもなる。
日照時間の長さ、豊富な水、高低差のある土地…様々な種類の野菜が作れる。
おまけに東京という大都会にも近い。
高速を使えば、23区外ならば一時間くらいしかかからない。
おいしい朝採りの野菜が、昼過ぎには都会で食べられるのである。
これも「これから」の贅沢と言ってもいいだろう。

おいしい野菜を、東京で食べるのは結構大変なことらしい。
居住している人に聞くと、こちらでは信じられないような値段で、信じられないほど悪いコンディションの野菜が並び、それでも売れているのだそうだ。

「野菜なんかなんでも変わらないだろ?」

そう言っている都会人に、ぜひ、こちらの「良い野菜」を食べさせてあげたい。
そんなことを思ったりしたのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月27日 (水)

「価値観」の変化

イギリスのオーディションTV番組から「スター」が生まれた。
彼の名は「ポール・ポッツ」。
一見冴えない見かけの彼は、他人には無い「美声」の持ち主だった。
彼の人生は、まさしく「一夜にして」変化を遂げたといっても過言ではないだろう。

同じように今度は「スーザン・ボイル」という48歳の女性が、人生の大転機を向えた。
「猫と暮らす独身中年女性」という、おおよそ「輝かしくないイメージ」を持たれるだろう彼女は、やはりその「美声」を買われて、先のオーディション番組の「大目玉」になろうとしている。


確かに両者の「売り」は「美声と、それに似合わぬ容姿」という点で一致している。
しかし「ポール・ポッツ」の場合は、私が聞いても慄然とする「声の持ち主」であり、すばらしいテノール歌手と言っても良いと思うのだが「スーザン」の場合、それほどの「もの」は感じなかった。
私は基本「容姿と声」をシンクロさせて聞くという「慣習」は無く、顔がどうあれ、それが「歌声」を左右する要素ではありえないので、ポールの時には驚いたけれど、スーザンの時にはむしろ「?」が頭に浮かんだ。
「どうして?」という感じだったのだ。
「平凡」とは言わないが「非凡」ともいえない。
5点満点ならば「4点」くらいな評価点なのだ。

ここまで世間を騒がす「原因」となったのが「You Tube」の存在だ。
全世界に発信されるこの「無料動画配信サイト」に載ったスーザンの動画は、何故か世間の衆目を集める結果を呼んだ。
ポール・ポッツの「二番煎じ」というか、その「トピック性」が高視聴率を生んだということなのだろうが、それにしてもなんとも不思議な気がしている。

「チェンジ!」のキャッチで人心をつかんだのは「オバマ米大統領」。
彼の国であるアメリカを発端にした「全世界的大不況」が、地球を「砂漠化」している中で、なんらかの「癒し」を求めたい人々が寄る「木の影」が、彼等のような存在なのだろうか。

人の価値観もまた、このような「苦境」の中にあって「チェンジ!」を余儀なくされているのだろう。
二人の「容姿」は「叶わぬ希望」を。
二人の「美声」は「夢の実現」を。
人々はみな「停滞する現実」の只中にあって、それでも「夢」を果てなく求め続けているのである。


…戦争、文明、思想、宗教…たくさんの人々が関わり、たくさんの利益や、そして「犠牲」を生み続けてきた近代世界。
それらがこの21世紀になって「一時停止」をかけられる格好になっている。
大きな「変革」を多数の人々が望む世界は、幸か不幸か「お手上げ」状態になっている。
その代わりに、まるで泥沼から沸々と湧き出す「泡」が示すような、小さな「変革」が始まり、小さなサイクルで終了している「動き」を感じる。
これがこのまま、サイダーの泡のように多数放出して「内包された圧力」を解放してしまうならばいいのだが、おそらくは多分、人間の「業」はそれを許すことは無いだろう。
小さな泡は「爆発的圧力」となり、やがては昔どおりの「革新的世界」を望む動きが再び急浮上してくる。
今は単に、その「前夜」のささやかな「ウェルカムパーティー」に過ぎないのだ。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月31日 (日)

ああ、もう!

こんなことやってるから、困っちゃうんだよな。

「市販薬のネット販売禁止」は、本当に困ってしまう人が居るんだ。
特に「漢方薬や伝統薬」は、基本的に「販売箇所が少ない」から、ネットや電話で販売するしか方法が無い人は多いんだよね。
販売取り扱い窓口であるところの「楽天」や「YAHOO」は、単に売り上げの減少を気にしてればいいのかもしれないけど、実際に困るのは販売する薬局であり、薬を必要としているユーザーなんだ。
「事件は現場でおきてるんだ!」という有名なセリフが、そのままここでも使えそうな気がする。

漢方薬は最近は病院でも処方されるようになってきたけど、実は「保険適用薬」は案外少なくて、漢方薬の「得意分野」でもある「多種な症状にも対応できる」良さが、完全に発揮できる環境じゃない。
おまけに、ほとんどの医師は漢方薬を「頭痛薬」とか「風邪薬」とかと同じ捉え方で処方しようとするから、結果「効かなかった」というレッテルを貼られてしまうことも珍しくない。
風邪の諸症状だって簡単に言えば「寒気」と「発熱」では飲む薬は違う。
単に「副作用が少ない薬」という認識で、積極使用しない人が多いのだ。
だから、今回の「電話販売禁止」も、あまり大きなムーブメントには繋がっていない。
医者も「?」で、一般ユーザーも「?」なのだ。
本当に必要としているユーザーの声が、とても小さいということなのである。

本当に諸症状に完全に対応させていきたければ、保険適用薬だけでは全く不十分なのだ。
今は「エキス薬」がメインになっているけど、本来漢方は「煎じる」という手法を使って飲用するのが前提になっている。
実際「葛根湯」などは、エキス薬で摂るよりも、煎じた熱いヤツをググっとね…あれ、イケルくちね、とか言いながら…あ、そうじゃないか?…良薬口に苦しで「ゲベー(汁)」とか言いながら飲むのが効くのである。
温度も重要な要素なのだ。

漢方薬は、市販の風邪薬とはわけが違うのだ。
私は漢方の現場にも近い人間なので色々見てきているけど、結構高価な薬をダンボールに詰めて宅急便で送るということは珍しくもなんとも無い。
高価でも定期的に買う人が居るのは「効果がある」からに他ならず、それを「根切り」にしたら、ユーザーはどうやって病気と闘っていけばいいのだろうか?。

病気との闘いは、単純に自分が生存するためだけのものじゃない。
自分がときに駄目になりそうに感じるとき、支えてくれる大事な「相棒」である薬があるから、人は「未来」を信じて生きていけるのである。
その「支え」を、簡単にふんじばってしまう権利は、お上にだって無いはずだ。
少し考えればわかるようなことを、都会のど真ん中で暮らしていると、どうやら人は「狸」に化けるらしいな。
人様の「こころ」が理解できなくなっちゃうんだから。

ああ、もう!。
本当に最近は「人の顔したタヌキ」が多いやね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »