« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月 1日 (月)

本気かよ?

最近の大人は、考えが貧弱だね。
もう少しマシになるかと思ってたけど、昔と変らない。
どっちかといえば昔のほうが粋だった気がする

これなんだな、そう思わされたのは。
沖縄県は宜野湾署。
暴走族…そう例の「♪パラリロパラリラ↑」みたいな音を響かせて(今は違うのか?)公道を走り回るお兄さん、お姉さんたちのことだ。
もちろん、足で走り回ってるわけじゃない。
バイクなり、車なりなのだが、彼らが走ると確かにうるさい。
道交法無視も良くあるので、危険を感じた人も多かろう。
彼らの行動は「法治国家」としては見過ごしては置けないようなところも確かにある。
暴走行為は、なんだかんだいっても、その他一般人から見れば「不快行為」である。
警察も取締りをしないで、何やっとるか!と突き上げを食らうのだ。

そこで宜野湾署は考えた。
「イメージダウンを図って、彼ら立場を失墜させよう!」と。
…そも、その考え方がおかしいと思うのだけど、そう考えたのだ。
で、討論の末出た答えが「ダサイ族」
?…「マサイ族」じゃないよ…「ダサイ族」!(爆)…なんちゅうか、宜野湾の方は人が好いのだろうなぁ、としみじみと思う。
他の候補に挙がったのが「よわむし族」「ゴキブリ族」だそうだ(笑)。
「よわむし族」は、人権問題にかかる部分が大きいと思うからなんだけど、「ゴキブリ族」っちゅうのも、凄いやね。
直球勝負そのものだ。


しかし、私はなんとなく「懐かしい」気分で今居る。
わが上州にはかの超有名な大組織だった「ブラック・エンペラー」の支部があった。
その他多くの「暴走族」グループがあって、あまり内情は知らないが、彼らは大変に「統率」されており、いわゆる「走り」に関しては、ただ無茶苦茶に走り回るのでなく、決まった「日にち」があったように思う。

彼らは私が見ても「明確な目的」があって、その上で「走り」を行っていたと思う。
「アイデンティティー」を重視した組織でなければ、大きな集団を統率など出来ない。
彼らはだから「哲学」を持っていたんだろうと思う。

大人社会には大人社会の哲学があって、青年には青年の「守るべきもの」があった。
それらが対となってぶつかり合いながら淘汰されて行ったり、いわゆる「卒業」みたいなことがあった。
これは彼らにとっては「ひとつの答え」なのであり、暴走という歯止めの無い行為への「疑問への回答」でもあったのだ。
それはある意味、さわやかな結論でもあったように思う。

いわゆるそういった「大規模暴走族」というものが無くなって、かえって暴走行為は「パーソナル」になり、そのことで「答え」は非常に遠いものとなってしまった。
誰に教えられるでもなく、暴走のスリルにだけ救いを求める青年たち。
体制と反体制は、ここにきて「合流点」を見失ってしまったのだ。
これは「どちらにとっても不幸」であり、そして暴走行為を行うもの=犯罪者、というレッテルが簡単に貼られるようになった。
なんとも無味乾燥なことだ。

宜野湾署が打ち出した「方策」は、必ずしも効果があるかどうかは疑問だし、体制が反体制を「狩る」という位置づけから外れているわけではない。
しかし彼ら暴走族に対して「犯罪者」という以外の「名前」をつけよう、というのが、私としては昔を思い出すようで懐かしいのだ。
正直「ダサイ族」はダサイのだが、この「心の奥から湧き出してくる」笑いのような、涙のようなものはなんだろうか?。
「まだ日本も捨てたもんじゃないな」と、どこか一方では思っていたりする私なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 2日 (火)

昔は良かった…




コネタマ参加中: 【落書き】おじさんは何をつまみに飲んでいるでしょう


Neta_004_cocolog_oekaki_2009_06_02_

「過ぎ去った 過去はつまみに 苦い酒」
お粗末!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 7日 (日)

「いじめ」対策?

また「ニュースネタ」。

ココログニュースの「迫力のいじめ対策に反響」に目が向いてクリックしてみた。
「なんちゃって教育家」の森口朗さんが、パネラーとして参加したときに聞いたある「いじめ対策」の発表を、ご自身のブログで書かれているのだが、私が見る限りでは「迫力のいじめ対策」などという見出しとは遠く、非常に合理的で、効果的な方法だな、と思った。

私自身は「いじめ対策」という言い方が好きではなく、「いじめ」は幼少時の「環境」でかなり減少できるものという考えを持っているので、殊更「対策」を前面に押し出すのはどうかと思うのだが、しかし実際に「いじめ」は日々どこかの教室で起こっているわけだから、これも止むを得ないのかな?と思う。

「事実」を言及し、複数の人間が把握することは大事なことだ。
これをおろそかにすることは、事実の誤認を生むし、正確な情報が得られないから、対策方針を狂わせる元凶ともなる。
いじめる側、いじめられる側ともに、未来への影響はとてつもなく大きいだろう。

しかし、本来は大人が「手助け」はしても「解決」はしなかったのが、子供社会の「ゴタゴタ」だったはずだ。
子供にも「大人の常識」に通じるものはあり、それゆえに大人は安心して子供に「自治」を任せることが出来たのだ。
人間は「強者の理論」だけで成り立っているわけじゃないから
「お前、の(ピー)太のくせに生意気だぞ!」
…などという「理不尽」が罷り通ってはいけないのである。
これは「大人社会」でも同じだったはずで、競争社会の塊であるところの「資本主義社会」であっても、卑怯者は卑怯者だし、禁じ手はちゃんと有効だったのだ。
大人社会のモラルが崩壊し「金×3」の世の中を人々が認め始めたときから、子供社会もやはり崩壊してしまったのである。

「私たちには何が必要だったのか」を知るには、崩壊した時間の何倍もの時間と、長く苦しい時間が必要になるだろう。
そしてそれを真摯に見つめようとする「目」も。
これは容易なことじゃないし、ひょっとしたら「手遅れかな」という絶望的な思いがよぎることもある。
「対策」は、所詮は「パッチあて」に過ぎない。
本気でやるならば「その上」を望まなきゃ無理だろうと、私は思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月 9日 (火)

当たり前のことは、当たり前だと言おう!

全盲のピアニスト「辻井伸行」さんが、米国のバン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した。
同コンクールでの日本人の快挙は40年ぶりというから、これは「掛け値なし」の大快挙である。

ピアノコンクールには「障害の有無」というものは、実質上反映はされない。
これは「当たり前」のことだ。
純粋に技術と、表現力を試されるのが、こういったコンクールの意義なわけで、その舞台で優勝を勝ち取った辻井さんのピアノは世界に通用し、審査員の賞賛を受けたわけだ。
「このこと」は、色々な意味で「意義深い」ものを持っていると思う。

今朝見たテレビで、指揮者の「佐渡裕」さんが辻井さんの優勝に触れ、目を潤ませながらインタビューに答えているのを見た。
「涙の理由」を私は知りたかったのだが、それが単なる「感動の涙」ではなく、師が弟子注ぐ「喜びの涙」であることがわかり、私は嬉しかった。
優勝は「月日の実り」であることを知っている人の涙は信じられるし、綺麗だと思える。
そこには何の「濁り」も無いのだ。

全盲というのは確かにハンディかも知れない。
しかし彼は幼少時より非凡な才能を発揮し、そしてその才能を伸ばすために教えを受け続けてきたのだ。
その研鑽努力が花開いたのだから、これは「咲くべくして咲いた花」と素直な賛辞を送りたい。
障害がどうのこうの、というのではなく、持って生まれた才能が開花し、これからも素晴らしい演奏を聴衆に提供してくれるであろう、そのことが真に「素晴らしいこと」なのである。


辻井さんの「成功」は、才能を伸びやかに育んできた周囲の環境によるところが大きいはずだ。
そして、この国にはたくさんの「才能たち」が存在する。
しかし、障害を持ちながら「活動」を続けている人の中には「周囲の目」の屈曲した視線に晒される事で、本来の自分自身の「感性」をも自分で歪めてしまう、という例が数多く存在する。
「…障害を持つ人らしい、優しさを持った絵だ」
「…かわいらしいわね、優しいね」
などという、所謂健常者の「浅薄な思い込み」が、本来個人の「持ち物」である「感性」を、本人から奪ってしまうのである。
これは「障害を持つ人は社会的弱者である」という「見方」と、そして「現実」が生んだ「悲劇」といえるだろう。

「もっと結果を率直に評価して欲しい」のだ。
良いものは良い、駄目なものは駄目、と指摘し、厳しく優しく見守って欲しい。
腫れ物に触るように、当人たちと接することに何の意義があるというのだろう?。
同情の感涙に、何の明日があるというのだろう?。

障害の有無にかかわり無く、我々が見聞きしているものの「創り手」に対しての最大の評価は「嘘を言わない」ことではないのだろうか?。
辻井さんの演奏は素晴らしかった。
特に最終演目の「ハンガリー・ラプソディ」は、うねるような序半に並々ならぬ才能を感じた。
これからも「周囲の目」に押しつぶされないように、良い経験を積んで深みのある演奏をしていただきたい。
私はこれからも「当たり前は当たり前!」のポジションを崩さないことで、彼らの「小さな盾」になっていたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月12日 (金)

ああ、廊下…いや、老化。

私は昔から白髪が多い。

子供時分から多いから、この歳になって白髪が目立つようになっても、人並み以上には驚かないで済んでいる。
「染めろよ」という声も聞くが、染める予定は無い。
頭を染めるのに金かけるのは嫌だし、頭皮からの物質の吸収は、物によっては経口吸収よりも多いのだそうだ。
あのアンモニアっぽいモノを頭に刷り込むなんて、ゾッとしない。
おまけに「毛の伸び」が私は早いほうだから、非常にコスト率が悪いのだ。

そんなこんなの理由をつけて、白髪頭のままで平気で暮らしている。
久方ぶりに会う人から「…白いねぇ」と驚かれることはあるけど、それも一時だしどうだって良い。
…実は天辺の辺りは「密集度が少ない」…簡単に言えば薄髪…なのだが、それも親父譲りだし仕方が無い。
白髪も薄髪も「私のせいじゃない」んだから、他人様の反応なんてどうだって良いのだ。

どうやら「髪が白くなる原因」というのが解明されたようだ。
毛根には「色素幹細胞」というものがあって、それが髪の色素を作っているわけだが、この細胞のDNAが徐々に損傷を受け、それが蓄積されると次第に色素が作れなくなってくるらしい。
それが「白髪」の原因だという。

時間が経過するたびに、ヒトの細胞は徐々にダメージを受けてくる。
結果的にこれが病気を引き起こす元になったりするのだが、白髪のメカニズムも「同じ」というわけだ。
私の場合は小さいときから白髪が多かったから、色素幹細胞が「スカ」だった毛根が多かったんだろうか?。
これは私にもわからない。


しかし人間歳をとって、頭も白くなるし、禿げもする。
いつまでも「若い」ということは、それはそれで素晴らしいことだけど、でも「若さ」というものにすがりながら生きていくのは何かやるせない気がする。
何時までも燃え続けるマッチがこの世に無いように、自身が燃えながら、身をよじるように変化していくのが「人生」なんじゃないかな?と思う。
人間が火を見て安心した気持ちになるのは、きっと「何かを消してくれる存在がこの世にあるから」なんだと思う。
変わり映えもせず、安定を願いながら生きるのは、生きる「真理」から外れた生き方のようで、私は嫌いだ。

だから「老化」という言葉も、的を外した言葉のように感じるから嫌いだ。
歳をとるのは当たり前のこと。
いつまでも「バイアグラ」に頼るような生き方はしたくない。

…うん、そうだ。
白髪だってきっと「人生を燃焼してる証拠」じゃないか!?。
いつまでも黒々としているのは健康の証拠だから良いとして、頭を染めて、ズラを被って、それで黒く見せようなんていうのは、やっぱり恥ずかしいなぁ、俺は。
「あしたのジョー」のように、人生のリングで燃え尽きるように生きられたら良いなぁ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月19日 (金)

私が子供のころ、蛍はすでに「珍しい存在」だった。
「昔はあちこちで飛んでいたんだよ」と言われ、日常の風物詩だった蛍。
しかし、経済成長の影響から、河川が汚されたり、護岸改修などが行われ流れが速くなってしまった結果、蛍の成育にはきわめて不利な状況が出来上がってしまった。

「蛍の舞い飛ぶ姿が見たい!」と、蛍の生育に力を入れてきた人々の努力の結果、再び野山に舞う蛍の姿が見られるようになったのは嬉しい事だ。
私などの「高度経済成長ただなか」で、生まれ育ってきた人間には「懐かしい」という感慨は無いのだけど、あの頼りなく、ふわふわと輝きながら飛ぶ姿を見ていると、心の奥のほうで「大事なもの」の姿や、その存在が朧気に浮かんでくるような気がする。

蛍は、人間などの種と比較して、その生涯が極めて短い生き物だ。
幼虫時は川に棲み、カワニナなどの巻貝を主食にしながら生育する。
その後陸に上がり、サナギとなった後羽化し、成虫になってから約10日間生き続ける。
「たった10日」の期間の間に交尾し、産卵をして、生涯を終える。
…ダラダラと何十年間も生き続ける事が可能な人間から見ると、種の違いがあるのは当たり前としても「儚いなぁ」と思わざるを得ない。
生存期間の長さが「生」の懸命さと比例しないのは確かだけど、その「儚さ」は何かを我々に伝えてくれる。
エコだの、自然保護だのと「声高に」叫ばれる言葉に埋もれてしまいそうな「小さな声」だけど、それは何か、人類にとってとても大事な「言葉」のような気がする。

今年は蛍を見に行こうかな?と何年かぶりに思っている。

「火垂るや火垂る てのひらに その軽さ あかあかと有りて」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月20日 (土)

来週号の少年チャンピオンは!

…いよいよ「すくらっぷ・ブック」小山田いく先生の「一話読みきり」だ!。
ふふふ…ついに番が回ってきたぞ。

しかし、心配が強いのもまた事実。
「復刊どっとこむ」の、すくらっぷの「オマケ」作品「どっぐ・いやぁ」で、近年の先生の絵を見ることができた。
もおちろん、現役の作家さんであるからして、画力が落ちているわけではないのだが、なんというか「絵がうまくなった」というか「線が単純になった」感じはある。
だから「当時の」感じが出なくても、それは仕方がないとは思っているが…あとはストーリーをどう展開させていくかというところだろう。

今週号の「らんぽう」内崎まさとし先生は、画力の大きな衰えも無く、ストーリーや、全体のスピーディーなギャグ展開も往年を思い出させるものだったので一安心。
ジョージ秋山先生は現役バリバリでもあるし安心だった。
「よたろう」は、今見るとなんとも味がある、いい作品だったねぇ。

一方びっくりしたのが「月とスッポン」の柳沢 きみお先生。
言い方は悪いかもだけど「これ???」というのが正直な感想。
数々の作品がTVドラマ化されて、悠々自適なのだろうか?。
これは「片手間デショウ?」と言いたかった、ハッキリ言って。

…まぁ、いろいろあるけど、少年チャンピオンは本当に「記憶に残る」漫画雑誌だったんだなぁ。
今は「ドカベン」しか見ない(当然立ち読み)私だけど、かぶりつきで見てきた「歴史」がある、っていうこれは「証明」なんだなぁ、と特集を見ながらしみじみ思うのだった。

…来週号はもちろん「買い!」だけどね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月26日 (金)

時空(とき)を超えて

「すくらっぷ・ブック」…オンデマンド版ではない、完全な書き下ろしの「新作」。
晴ボンが叫び、走り回り、マッキーが暴れ、泣きじゃくる。
カナちゃんはオタオタし、雅一郎は火に油を注ぐように振舞う。
…理美ちゃんが、イチノが、信州ヒグマも…いつもの「3-7」の日常が繰り広げられる。
そう「いつもの」…日常的風景が展開されていくのだ。

今、この日本全体が「マンガ」みたいな出来事で、毎日がざわめいている。
どこかで知らない誰かが、知らない誰かの命を殺め、生活が左右されるような重大事を、小馬鹿にしたような口調で話す政治家がいる。
ヒステリックな日常など要らないはずなのに、傷口に塩を塗られるような毎日を誰もが過ごしている。

誰かが、誰かを思いやることの「連鎖」。
簡単なことではないけれど、決して「出来ない」ことではなかったはずだ。
相手といつも触れ合える「距離」。
体温を感じられるほどにそばにいたなら、相手の抱いている「空気」がわかる。
とても「単純」なことばかり、毎日転がっていたような日々。
…「すくらっぷ」の世界には、いつだって風が流れていた。


信州小諸の地には、高原の風が流れる。
浅間から麓に、そして千曲の流れまで。
淀んだ都市のような空気ではなく、換気が悪いエアコンが効いた部屋の中でも無い。
風と一緒に「音」も流れる。
木の葉の「さざれ」が倍音となって、山の斜面を下り落ちる。

目を瞑る。
…多数の「妖精たち」の声のように、波のように何度も通り過ぎる音たち。
「ああ、まだ消えていないんだね?」
人の暮らしがどう変わろうとも、月日が長く過ぎて行こうとも「変わらないもの」は「変わりはしない」。

昔「彼ら」に会いたくて、夜の峠をバイクで越えてきた18の春。
あの日、彼らの「存在」を確かめることは出来なかった。
そして、姿を「確認」したくて…確かめたくて、何度も小諸を訪れた。

あれから27年が経った。
「懐古園」の見晴台に一人立ち、千曲の流れを見ながら想う。
「なんだ…最初から…」
…そう。
「最初から、居たんだね?」
この「小諸」から彼らは生まれたんだ。
この自然が、街が、失われない限り、彼らとはいつでも会えるんだ。

「すくらっぷ・ブック」は、時空(とき)を超える。
…朽ちることは無いし、いつだって会えるんだ!。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »