夏祭り
「花火大会の中止」が相次いでいるそうだ。
企業からの協賛金が集まらないのが一番の理由だそうだが「開催中止」は止めて欲しい。
地域住民の楽しみを奪うし、煙火店(花火屋さん)の死活問題に直結してくるから。
人間には「苦しくてもこれだけは!」というものは在ると思う。
個々人にも酒だの、タバコだの、というものはあるが、それは「コミューン」としても存在していて「祭り」と言うのはそのひとつなのだと思う。
現代人が「軽薄短小」の浮薄な生き方をしてきた中で「忘れてきたもの」がある。
目の前の「仕事」という雑事の中で、忘れてきたものは多い。
そのひとつが「連帯感」だ。
例えば「村」というものは、別に「その村の圏内に住んでいるから」村の人間、と言うわけではない。
どこからか「ふらっ」とやって来て、なんとなく住み着いた人間を最初からまわりが「村の人間」と認めないことでもそれは証明される。
「むら」というものは「文化」そして「歴史」というものから切り離すことは出来ない。
その地方独自の「臭い」を持っていない人間は「むらびと」では無い、という暗黙の了解が存在しているのだ。
そのことについてここで言及する気は無い。
ただ「むら」というものが「連帯」と無関係では存在できないものだ、ということは理解いただけると思う。
…で、その「連帯感」を確認するための「ビッグ・エベント」が「祭り」なのである。
むらびとの「心の依りしろ」たる神社。
その神社に集って「神輿」をあげる。
これは「神様」を奉るということと同時に、むらびとが
「仲良く過ごせておりますよ、争いごとは無いですよ」
という、神様への「誓い」でもあるのだ。
だから「祭り」というものは、お金が集まらないから止める、とかそういった類のものではありえない。
「行うことに意義がある」もので、それは「花火大会」も、あまり変わらないんじゃないか?と思う。
「隅田川花火大会」は、全国の花火大会の始祖とも言えるようなものであるが、時の将軍「徳川吉宗」が悪霊退散とコレラの発生を「払う」ために整備したものである。
「火の力」を「払い」に使うと言うわけだが、もちろん民衆の「精神的安定を図る」と言う意味や、幕府への信頼感を向上させると言う政治的目的も含まれている。
隅田川ほどではなくても、現在は観光振興、住民の娯楽などのために盛んに行われ、拡大してきた花火大会。
目的そのものは「純度」を失って、観光娯楽化されてきたとはいえ、その根底に根ざすものは
「闇の中の、一輪の火の華」であり、それはまさしく「心の闇を焼いてくれる火花」なのだ。
神様に神輿を奉げる事が、実は自らの心を鼓舞し、時に孤独に苛まれがちな日々の生活を顧みさせる「心の栄養剤」であるように、花火と言うものも「鬱屈した日々の澱」を払い去ってくれる、ありがたい「習慣」なのだ。
人は時に「純粋」を欲しがる。
純粋な出来事があるから、人はまだ人として居られるのだろう。
機械になりきれない!と叫んでいるような「若者」が増加している今だからこそ「祭り」は絶対に大事なことなのだ。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 「コンクリートに罪は無い」ぃ?(2009.11.06)
- 今一番輝いて「無い」皆様(2009.11.05)
- …なんじゃこりゃ~!(2009.11.03)
- 小林ムツさんに会ってきました(2009.11.01)
- 理想という、巨大で静かな腕(2009.10.28)


コメント
るみくすさんこんばんは(o^-^o)
突然ですが、明後日、小諸いってきます。!
いろいろ予定が変更になりまして、急遽です。
一人で行くことになりそうです。
まあゴリ隊長に用事言いつけられなければの
話ですが・・・
たぶん大丈夫やと思います。ヽ(´▽`)/
投稿: 豊岡鉄道絵部長 | 2009年7月13日 (月) 20時41分
>豊岡鉄道絵部長さま
次のページに詳しい案内を載せておきましたので、ご参照くださいませ。
投稿: るみくす | 2009年7月14日 (火) 00時17分