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2018年6月

2018年6月 8日 (金)

足すことで生きる

最近「外来種だから」というのをよく聞くようになった。

事の発端は、おそらくが「池や湖などの水を抜く」番組だろう。
水を抜く過程で「カミツキガメ」などの「外来種」が出てきて、それを駆除していくわけだが…その「理由」というものは「国内在来種」「古来種」の絶滅状態の回避、環境変化を引き起こさないための予防、というのが、番組いうところの「筋」のようではある。

まあ、ある意味結構なお話ではある。
私が居住している群馬県でも「尾瀬ヶ原」の変貌は凄まじいものがあり、外来種のみが理由ではないが(特に天候の変化によるところが大きいと思われるが)今までには見かけなかった植物が急増している状態だ。
これは湿原の急速な乾燥化が引き金になっていると思われる。


今まで自然保護などの言葉に「全く反応しなかった人々」が、やたらとこの「外来種」という言葉を使いだすようになった。
非常に気味が悪くて不快に思っている。

彼らが何故この「外来種」という言葉に反応してきたか?ということを考えるならば、理由は一目瞭然だろう。
それは件の番組の「構成」が、暗に(というか、たまたま、というべき???)「外国人排斥」を想起させるからだろう。
知らんぷりはしてはいても、日本人の中には「鎖国」というものがいまだに根強く息づいている、その「証左」と言えなくもない。

番組は「池」という「特定の範囲」の「水を抜くこと」や「外来種の根絶」を図ることで「浄化」というものを達成することを目的としている。
この「キーワード」はそのまま、イメージとして拡張して、最終的には日本人の身内にいまだに強く残り続けている「攘夷排斥」と結びついている。

おそらくは、外来種というワードを好きで使っている人々には、その意識は「全くない」のだろうと思う。
私の周囲にもそういう人はいるが、彼らは見た目あまりにも「善人」でしかない。
実際、善人なのだろうと思う。
よくよく彼らも考えるなら、自分たちが何気なく使っている言葉が「差別的なものである」ということに気付くのだろうと思うが、それにはあまりにも言葉が先行してしまっている。
テレビ番組が果たして「意図的に」視聴者を洗脳し、人々に攘夷や外国人差別を進めようと画策しているかはわからないが、影響力としてそれは決して「小さくはなかった」ということが、私には驚異であった。


恐ろしいことではある。
戦慄すべき事実である。
日本人は今でも、二次戦前のように「日本純血主義」を貫こうとする「資質」を持ち合わせていたのだ。
外国人を排斥し、外国文化を排斥し(しかし、ちゃっかりと「自分たちのもの」としようとするところがいかにも日本人らしいが)そしてそれが「自立国家である」という、とてつもない過ちを繰り返すことが可能なのだ。

今回のことは、私にそれを気付かせるきっかけになった。
しかし「排斥」というところから始まる文化が、長く続いた歴史なんて無い。
戦争であれ、友好条約であれ、もしくは自然と融和していくという歴史であっても「結びつくこと」で始まった歴史は息が長いが、排斥することから始まる歴史は、どんなときでも非常に短く終わる。
ナチスドイツ然り、日本帝国主義然り、アフリカで絶えず勃発し続けている、小国家の成立然り、だ。

人間は「足す」ことで生きていける生き物だ。
生の営み一つとっても、それは揺るがない事実だ。
人種や民族や、それに伴う文化が違うといっても「たったそれだけの理由」で認め合うことを拒絶してしまうなら、そこから始まるのは諍い以外の何ものでもなく、たとえ国家が成立したとして、それは内部から瓦解していく。
…二次戦を知る人たちが、この世から次々と去っていく今。
国の代表者たる「総理大臣」すら、戦争を実際には経験してはいない世代になり、この先の日本はとても危うく感じられる。

2018年6月 6日 (水)

泣けない子供、泣けない親

たまにはシリアスなことを書こうか?。
…いつも暗いだろ?…まあ、それはそうなんだけどね(;^_^A。

最近のニュースを見ていると「児童虐待」に関してのものが多くなっていると感じる。
急に増加したということではないが、ニュースになるということは、それがエポックだからということ。
つまり「状況として酷いこと、凄惨であるということ」と言える。

育ち盛りの子供に十分な食事を与えない。
お風呂とかに入れずに、汚いままにしておく。
殴る蹴る、果ては高い場所から突き落とすなどの暴行行為。
どれもこれも、通常であれば考えられないような異常さを孕んでいる。


つい最近のこと…これは私が目撃した事実だ。

私はある大手量販店の「セルフレジ」の空きを待っていた。
セルフレジは数台しか設置されていないが、その時は客が多く、レジはすべて使用中であった。

私の前に、まだ小学校低学年くらいであろうか?…男の子が父親と思しき男とレジを操作していた。
男は子供の後ろで何をするでもなく、子供がレジを操作する様子を見ていた。
突然「パン!」という音がして、私は視線を上げた。
目前の男が、男児の頭を平手で叩いたのだ。

その出来事に、周囲は凍り付いた。
賑やかな店内で、その瞬間だけ周囲から声が消えた感じだった。
男は何事かを男児に、やや怒気がこもった口調で言う。
推察するに、男児がうまくバーコードをスキャン出来ないことが腹立たしいようだった。

私も何度もこのレジを使ったことがあるのでわかるが、このタイプのレジはあまり感度が宜しくないようで、読み取らせるのに少し工夫がいる。
子供にはやや高い位置にあるスキャナーに、商品を上げながら読み取らせるということは、正直難しいことだろう。
悪戦苦闘する子供に、その男は業を煮やし、挙句の果てに殴りつけたのだ!。

思わず私は子供の顔を見た。
苦痛で歪んだ顔をしているのではないか、泣いているのではないか、と、そう予測をした。
しかしその予測は外れた。
「彼」は、その時「全くの無表情」だったのである。

私は思わず息を呑んだが、それから先の言葉も出なかったし、動くこともままならなかった。
自己弁護でしかないのだが、周囲の人も一応に同じだったと思う。
そうこうあるうちに、その親子(?)はレジを済ませて出て行ってしまった。
私も空きが出来たレジに進んでいった。

それから数日がたった今でも、そのときのショックが忘れられない。
はたして当人にとって、それは「しつけ」というものだと思っているのかもしれない。
しかし、あれだけの「衆人の目」がある中で、まだまだ幼い子供の頭を、大の男が叩くという行為は、とても正当なことであるとは言えないだろう。
これは学校などでの「体罰」というものとも異なる。
体罰そのものも認められるものではないと思うが、体罰は「クラスの和を乱したこと」に対し、下される「刑罰」というものに近い。
これもあまり褒められた行為ではないけど、しかし、私が目撃した「行為」は、それとは異なり「刑罰に値するようなこと」を、あの子は何も行ってはいないのだ。
もしそれがあるとすれば、それは「男と子供の間「のみ」に通用するルール」でしかない。
我々周囲の人間の目に映るのは、ただ「暴力行為」としての「それ」でしかないのだ。

だからこそ「それ」は「異常行為」なのだ。

店舗の中という「公共の場」において、大の男が小さな子供を叩く、ということは、当人たちを除いた周囲の人間から見れば、明らかに「DV」であり、虐待である。

それに気づかない。
いや、もしかしたら「気づいていても、止めない」のだろうか?。
大人が…まるで子供が大人に従属する「存在」でしか無いように振舞っている。
社会的な立場とか…否!「子供は保護すべき対象」である、という、ごく自然で当たり前のことをすら、まるで頭の中に無いように思える。
それだけではなく、子供を従属させるために「暴力を使う」という、その「理屈」に、私は大きな戦慄を覚えるのだ。


あの時。
もし子供が、私の思う通りの表情を浮かべていたなら、ここまで強く記憶には残らなかっただろうと思う。
泣き顔だったなら、それはどんなにか「救い」であったろう。
しかしあの「無表情」から感じるのは、悲しみでも辛さでもない「諦観」そのものだった。
子供が親を見限っているという、運命をあえて享受しようという、どこか「つまらなそうに」している顔が忘れられない。
あれは「諦めの顔」であった。

子供と親が、親子ではなく「友達関係」と言われて久しい。
娘が母に「お母さんは友達みたいなんです」と笑顔で言い、母が笑い返している映像を見たことがある。
私はその時、心底「ぞっ」とした。
「…では、親子の区切りというものは、どこで、いつ着けるつもりなの?」…そう思った。
結婚して、人の親になった後でも、ずっと「友達」なの?と。

親、というものは、私は「不完全さが大事だ」と、そう思っている。
完璧な親などいない…日頃偉ぶってはいても…子供がどこか、何かのことで親に反発心を抱いていても「そのことで」自分は親との「決別」を果たそうと躍起になるし、ステイタスを持とうとする。
不完全な存在であるからこそ、自分が親の立場に相成り、自分が親として、人間としての「欠落」を見出した時、過去を振り返ることで自分を許し、そして血を分けた子供たちの所業をも許そうとできるのではないか。
欠けているという存在であることを暗に知らしめていくことが出来ればこそ、子供も人道を逸れず、まっとうな人間になれる。
「不完全であること」を自ら認めることが、つまりは「子育て」なのである。


子供に完璧を求め、自分の子供は完璧であるべきという「エゴ」を持つこと。
そのことこそが、何よりも「やってはいけないこと」であり、取り返しのつかないような過ちを犯すということになる。
…レジがうまく使えないくらい、なんだっていうのだ!
他の人を待たせるのが嫌ならば、自分でレジを使えばいいではないか?。
あまっさえ、衆目の中で「頭を叩かれる」ことで、どれだけ幼い子供は傷つくのだろう。

彼には泣き顔でいて欲しかった。
衆目の中で、泣きわめいて欲しかった。
悲しいよ!痛いよ!!と、そう主張して欲しかったのだけど。

…そうはできない子供が、増え続ける。
そして
「それが出来なかった子供が」次には親になるのだ、という現実。
私はその「未来」を、あの時に確かに目撃していたのだ。

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