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2018年8月 8日 (水)

時代が去った日

昨日8月7日は「渥美清さんが亡くなられた」という報道が初めて流された日だったようだ。

自動的に記憶を辿り「その時」のことを思い出す。
不思議なことに「その時」は未だに極めて鮮明で、事細かに思い出せることが多くある。

その日、私は長野県にドライブに出かけていた。
愛車だった白色のニッサンで、ラジオをかけながら碓氷峠の新道(バイパス)を下っている最中だった。
唐突に渥美さんの訃報が流れ、車内で私は「えっ!?」と声を上げていた。
…暮れかかろうとしていた空は夕焼けに赤く染まっていた。

殊更に「男はつらいよ」が好きであったわけじゃない。
少なくとも当時はそうだった。
だが不思議なことに、その時心が大きく揺れ、暫くの間は頭の中は「そのこと」でいっぱいだった。
現在でも、その瞬間が思い出せるということは、それだけ記憶に鮮烈だったということだろう。

多分、私は、多くの人がそうであったように「渥美清=寅さん」ということを疑問なく信じていたと思う。
ほとんど私生活を晒すことが無かったこともあり、まるで「スクリーンの中にしか存在しない人」のように思えてしまっていたのだろうと思う。
だからこそ「死」というものを現実的に受け止めるのに時間がかかった。
あの時私は「渥美清が死んだ」とは思わず「寅さんが死んだ」と、そう認識をしていた。
フーテンの寅さんが死んだ、と。

人が死んでしまうことは、これは避けることができないという意味で現実そのものだ。
しかし「架空の人」が死んでしまうということは、物語の上でしかあり得ず、それゆえに「心の置き場」というものを見つけることができなかった。

「寅さんが死んだよ」という一言。
それは「これ以上物語が綴られない」という意味だ。
一つの世界が終るということだ。

夕焼けの中、私は一人の男の死とともに「ラグナロク」を見た。
…あの日はこんな「夏の日」であったのか?と、今思う。

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