« 2018年10月 | トップページ | 2019年1月 »

2018年11月

2018年11月22日 (木)

時の色に染まるということ

小山田作品の電子ブック化が進んでいて、その影響でツイートも賑やかになってきた。
まずは良いことだ。

しかし、私自身はまだ、電子ブックを買って読んだことはない。
お金の問題もあるけれど、それ以上に妙な「引っ掛かり」みたいなものを覚えてしまうからだ。

リアルタイムじゃないから、というのは一つある。
それは書籍でも同じことなのだが…本は時間経過とともに黄ばんできたり、その時間を表す「モノ」が何かしらある。
黄ばんだページをめくり、どこか饐(す)えた臭いを感じながらならば
「ああ、時代が移ろったのだなぁ」と妙な納得感も得られたりするのだ。
しかしこれが「電子」だと、余白はまさしく「余白」であり「諧調256の存在」でしかない。
混じりけなしの「白」でしかないから、まるで蒸留水を飲むがごとく味気ないのだ。

そこには「時間」が存在しない。
その上に、インクで描かれた線が、今度は「諧調0」の存在で再現されている。
擦れてもいないし、薄くもなっていないのだ。

「これは本じゃない!」
…いつもそう思う。
だから私は、電子ブックを避けてしまうのだろうと思う。

時間によって染まった本は、私の人生経過とともに年老いた存在だ。
時に煙草の煙に燻されたり、時に子供の手垢で汚れたりした。
私の持っている作品の中の数冊には、ネットカフェで使用されていた痕跡まで残っている。
そういう存在だからこそ「今更読める」のだ…と、いうのは、少し斜に構えすぎだろうか?。

理由はもう一つある。

私の中では「すくらっぷ・ブック」が「最初で最後の愛すべき存在」なのだ。
作家「小山田いく」の作品中での最高傑作という意味などでは無い。
「すくらっぷ」は「私の人生にリンクした存在」なのであって、他の作品とは意味合いが違う、ということなのだ。
だから手元に単行本全冊とオンデマンド本が揃っているということもあり、私はそれでかなり満足してしまっているということになるのだ。

「すくらっぷ」は、文字通り、私の人生にリンクした存在だ。
同じ時間軸の中で、先生が執筆した作品を見、その世界に自分を投影してきた。
それは「好きな漫画」という次元ではなく、自分が「生きていく」なかで頼ってきたという程の存在であり、ある意味「人間以上に人らしい」という程、彼ら(キャラ)の存在は大きかったのだ。

だから最終話「これからは君たちの手で!」という言葉に激しく落胆をし、見捨てられたような気分にもなった。
「いや、まだ続くじゃないか!?…だって…」…私はまだ、生きてるんだよ?と。
…そうやって切っていくのか、と思ってしまった時、私の中で「小諸に行くこと」というのは、強い願望になっていったのだ。
そこから「小諸詣」が始まり、そして次期作「ぶるうピーター」への反発も始まってしまったのだ。

実際…「ぶるう」の世界は、現実感が希薄だったと思う。
何だかんだでしかし「ぶるう」を読んではいた私だったが、それは「すくらっぷ」の時とは大きく異なり、どこか習慣的なものであった。
それ故に、私はもう、ストーリをほぼ思い出せなくなってしまっている。
おそらくは自分の中で「認めたくない」という気分が強く残留していて、記憶を阻害していたのだと思う。

先に書いた「電子書籍で見たくない」というものと「ぶるう」への反発心とがあって、私は電子書籍を買ってはいない。
もちろんそれは特殊な例であるし、大勢の方に再び小山田作品に触れる機会が訪れたことは、本当に喜ばしく思っている。
私はまだ、どこかで過去の記憶を引きずっているのかもしれない。

« 2018年10月 | トップページ | 2019年1月 »

Yahoo!基金

2020年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

るみくすのリンク

無料ブログはココログ