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2019年1月

2019年1月27日 (日)

ミノルタ時代のレンズを試してみた

再びSONYの「α」関連の話。

SONYのαシリーズには、大半の「ミノルタαシリーズ」のレンズが装着できる。
一部機能制限はあるが、その機能制限が「少ない」のが、αの美点の一つかもしれない。

…というわけで「AF35~105 New」というレンズを「ジャンクで」買ってきた。
ジャンクとはいえ、状態はなかなかよろしく、コーティングなどの劣化も無さそうだった。
まあ、二千円もしないレンズなので、ダメならばダメでも宜しい。
気楽なものだ。

それを今日、使ってみた。
結果をまとめるとこうなる

1、解像度
大幅な破綻無し。
デジタル専用レンズと異なり、割合と絞って使ったほうがいい。
二絞り程度からが良くなる感じ。

2、歪曲
イメージサークルの中心部だけを使っているので、歪曲は少なく、像流れも少ない。
それでもやはり、二絞りは絞りたい。

3、周辺光量
上記と同じく、中心部ゆえに少なめ。

4、逆光耐性
弱い。
著しく、ということはないが、ゴーストより「フレア」が出やすい。
全体のコントラストが落ちてしまうので、逆光での撮影は気を付けたい。

5、色乗り
やや浅い。
コントラストが低いということとの相関性があると思える。
順光ではそれほどの差は出ないが、逆光では顕著。

6、ボケ味
悪くはない。
主観でしかないが、コマ収差から逃げられるという意味で、周辺でのボケの形は悪くない。

7、AF
時々シャッターボタンでスタートしないときがあった。
理由はわからない。

総合してしまうと
「見た目、コントラストが高い状態での光線、もしくは被写体で、なおかつ順光状態に近いような状況であれば、キチンと写る」
「マクロがそれほど効くわけではないが、メモ的に撮影していく場合には、小型のレンズの利点が生きる」
「内臓フラッシュと比較的相性が良く、マクロ域でケラレが出にくい。ただしADI測光は不可」
…といったところ。
サブボディにつけたままで持ち歩くという使い道がいいのかもしれない。


しかしやはり、というか、今回の結論としては
「デジタル対応レンズに比するものではない」
というのが、偽らざるところだった。

一方で、旧型の(初期の)αレンズも対応しているから、それらを装着して楽しむというのもいいと思う。
AFも正確であり、また「現役時代」よりも素早くなっているというのは美点だろう。
特に単焦点レンズは、面白そうだ。
マクロもとてもお値ごろな価格になっているし、ぜひ入手したいと思っている。


2019年1月22日 (火)

αに還る

以前にもこのブログに書いたのだけど「α-7000」に初めて出会った時の感動は忘れられない。

隣町の、アマチュア写真愛好家が屯しているような、小さな写真店。
その2階で「ミノルタAF機のプレゼン」がある、という記事を、地元新聞の欄で見かけたのが最初だった。
その時「ミノルタの?」というのが、私の正直な感想で、本格的なAF機を「ミノルタが創り出した」というのが、どうにもピンとこなかったのだ。

当時、AF機というものは「MF機に対しての、AF」という位置づけでしかなかった。
ニコンのF3や、キヤノンのF1に代表されるMF高級機は「その精度や質感」で、写真家を魅了していた。
ファインダーの「キレ」であったり、巻き上げレバーのガッシリ感であったり…「機械としての高級感」なしに、カメラの質というものが語れなかった時代だった。

然るに「巻き上げレバー「も」無いカメラ」というのは、そのカメラに対しての「蔑称」だった。
オモチャだろう、まともな写真なんぞ撮れないカメラだろう、というのが、当時のカメラマンの間では罷り通っていた常識だったのだ。

「ミノルタ」は「XD」シリーズ初め、最高級機とは少しだけ「袂を分けた」カメラづくりをしてきたメーカーだった。
「X-1」などの高級機を出してきた歴史もあるが、それは長くは続かず、単発状態に終わっていた。
私たちアマチュアカメラマンの間では「ミノルタには、ニコンやキャノンほどの技術は無いのだろう」という、ある意味「誤った常識」が罷り通っていたのだ。
そこになんと!「AF・プログラム露出・モータードライブ内蔵」という「スペシャルな機体」を引っ提げ、ミノルタが突如割り込んできたのである。
多くのレンズ群を引き連れ、アクセサリーも揃えて、だ。
そのときのカルチャーショックと言ったら…言葉にならないくらいだった。

隣町のカメラ屋で、初めて実機を触ってみて、そして再び驚かされた。
その「水準の高さ」といったものが、他のメーカーの「それ」に比して「桁違い」だったからだ。
シャッターボタンに触れると、被写体が「張り付くように」感じるほどに速やかに動くAF。
巻き上げレバーなどは無いけど、ショックをあまり感じさせず、静かに動くモータードライブ。
かといって巨大なのかと問われれば、その大きさはドライブを装備したMF機よりも「はるかに小柄」だった。
ファインダーは明るくて、キレも良かった。
ボタンとレバーしかない軍艦部は面食らったが、フォルムそのものは斬新かつ未来的で、直線メインのスタイリングは垢抜けて見えた。
おまけに「単四電池」で動く、ということも、驚かされた一つだった。
モーターを複数内蔵しながらも、これからがちゃんと動くということは、省電力設計が十分になされたという証拠だ。

叔父が買ったカメラを時々持ち出して、撮影もした。
当時の私の愛機は「キヤノンA-1」だったが、妙に相性が悪くて、ここぞというときにもっていくのに気が引けたというのもある。
35-70ミリの標準ズームと、100-200ミリの望遠ズーム。
それにフラッシュがあった。
…確か叔父は、その後にコンパクトカメラを買って、デジカメに移っていったはずで、αは旅行などの折に持ち出していた程度だから、最後までキレイな状態だった。
もし、自分がキヤノンユーザーでなかったとしたら、そのままαを使い倒して、あまり浮気もせずにいたかもしれないな、と思うと、売ってしまったことが惜しくも思われる。
譲ってもらうべきだったかもしれないが。

あれこれの「思い出」があって、αは「偲び思うカメラ」なのだ。
何度目かのαユーザーとなり、そしてデジタル時代に入って「初めての」α(SONY)ユーザーとなり、往時のことを思い出す舞台が整ったという感じだ。
…さあ、何のレンズを買おうかな?。

2019年1月20日 (日)

旧友再会、αよ永遠に!

前回に書いたカメラというのは、SONYの「αシリーズ」の一眼レフでした。
このカメラ、マウントに「Aマウント」という、かのフィルムカメラ時代の名機「α7000」と同じマウントを採用しているのです。

しかし「同じマウント」だからといって、機能が制限されてしまうカメラも多くあります。
某Nメーカーのカメラなどは「使えそうで使えない」ということもあるようですが、フィルムカメラのAF時代に思い切ってマウントを変えてこなかった「ツケ」が出てしまったのかもしれません。
αの場合は、マウントを全く異なるものに変えたので、電子接点などの拡張に自由度がありました。
これがデジタル時代になっても活き、過去のレンズがデジタル一眼でも使用可能、という「嬉しい誤算」を生んでいます。

リサイクルショップの「ジャンクコーナー」には、この「Aマウント」のレンズたちが「信じられないような価格」で並んでいます。
高いものでも3千円くらいで、安いものだと1千円台。
しかも状態が案外と良さそうなものがあったりします。

これらのレンズをとっかえ引っかえと見ていることの、なんという楽しさ!。
「昔のあのレンズたち」が、簡単に買える値段で目の前にあるのですから、それだけでもう気分は極楽です。
しかも、一部の機能(ADI調光など)が不可なのを除けば、AFだろうが、AEBだろうが、自由に使えるのですから。
なにか「青春が逆戻りしたような気分」になってしまうのですね。


「αシリーズ」には、いろいろな思い出があります。
フィルム時代のαは、α7000を始め数台のカメラを使ってきました。
叔父のカメラを借りての科学万博や、300ミリF4の「大口径レンズ(?)」をつけて取材した「α7xi」。
あの時が一番本気で「プロカメラマン」を目指していた時でした。

αブランドは、ニコンともキヤノンとも違い、どこかアマチュア的な匂いがあるカメラではありました。
しかしだからと言って手抜きらしい部分はなくて、外観や手触りはファミリアだけど、ファインダーの出来などは二大メーカーに勝るとも劣らないものがありました。
α7000が発売されてから、もう30年以上経過しているわけですが、未だにキチンと動く機体があることに驚かされます。
レンズも油切れなど無く、スムーズに動くズームリングなどを見て、見かけぬよらぬタフさに驚きます。
意外にもズシリと重いレンズですが、金属を材料として多く使っていた証左でしょう。

そんなカメラやレンズたちを見ていると、何か「仲間意識」みたいなものが芽生えてくるから不思議です。
「さあさあ!ウチに来いよ!」みたいな(笑)。
財布の紐が緩んでしまうのを、大いに自覚してしまいますね。

しかし…財政的にも厳しい日々ではありますが、このように「旧友」に出会えることは、殊の外嬉しいものです。
1千いくらで幸せが買えてしまうなんて…αのデジタルを買わなければ…いやそもそも「SONY」が「コニカミノルタ」のカメラ部門を吸収しなかったら、ありえなかった話だったりします。
SONYがαを販売し続けてくれたことで、このような「奇跡」も起きたということですよね。


楽しみが一つ増えました。

2019年1月 6日 (日)

カメラの森に迷わされ

またまたまたまたっ!!!!…カメラを買い替えてしまいました。
もう病気だな…。

買い替えごとに「言い訳」ってやつが出るのが、これまた悪いところで。
今回の「言い訳」ってのは…「モニターが見えないっ!」というところ。
まあ、今回のは少しは現実味があるんですけどね。

私は強度の近眼・乱視持ち。
オマケにシッカリと寄る年波での「老眼」も併せ持つ。
デジカメのモニターなんて、ふつうは「3インチ」程度しかないわけで、考えてもみればサービスプリントの「L版」より、ずっとずっと小さかったりするんですよね。
スマホの画面よりも一回り小さいんです。

近視を矯正せにゃならんので(そうじゃないと運転ができない)眼鏡をかけてます。
裸眼なら、ものすごく(数センチくらい)近づけば、デジカメのモニターも見えます。
しかし眼鏡を「着けたり外したり」というのは、なるべく避けたい。
撮影中にこんなことしてたら、まず撮影なんて無理です。
でも、眼鏡をつけていると、近くによると「ボケる」のです。
ピントが合わない。
これが老眼の害なのです。
眼鏡着用時は、3~40センチ離れないと画面がわからない。
ほとんど「切手」を見ているくらいの大きさです。
細かいディテールなんて、判別できるはずがない。

コンデジとかのスナップなら、まあいいんです。
厳密に構図を決めるもんじゃないし。
再生確認だって、通常はその場じゃしませんしね。
むかしだって「M型ライカ」はレンジファインダーだったし、構図だって一眼レフほど正確じゃなかったけど、傑作は生まれても来ましたしね。

だけど「花」の撮影とかはそうはいかないんです。
ピントは厳密、光の回り具合もわからないとダメ、被写界深度も確認できないと不便…こうなると、とっても不便な思いをして、モニターのみのミラーレス機での撮影なんて出来ないです。
出来る人は出来るんだけど、私には無理。

…で「デジタル一眼レフ」買っちゃいました!。
デジイチは、これで…えーと「8台目」かな???。
なんだかなぁ、って気もしますけど。

すごくお得なヤツで、もちろん中古です。
機能もすごくシンプルで、画素数とかも今のに比べるべくも無いほど少なくて。
でも、PCのディスプレーで画像を確認してみると、案外と細かいところもシッカリ出ていて、文句は特にありませんね。
ミラーレスに比べると、とてもゴツくて重たいですが、これは仕方ない。
それに、年々どういうわけなのか、デジカメの画像はハイコントラストでハイシャープ傾向になっていますので、それが嫌だというのもあります。
これまで使っていたのは、色のコントラストと彩度が高すぎて、細かいディテールが飛んでしまってたんですね。
こういうのを「色の飽和」って言うんですけど、それがあまりに酷かった。
紅葉なんてもう惨憺たるというか…ああなんでだろ?と画像を見て溜息ついてたくらいでした。
センサーがCCDからCMOSに変わった、というのが主な理由なんでしょうけど…私は別に感度アップが欲しいわけじゃないし、そこまで運動会やらお遊戯会やらに媚びらなくてもいいんじゃないか?とか、言いたくなっちゃいますね。
まあ、ほとんどのユーザーさんは、そういうのが欲しいのだというのはわかってるんですけどね。


レンズ始め、アクセサリーが安いメーカーだったというのも、買い替えの理由です。
市場にまだ豊富にあるというのも。
だから願わくば(!)暫くは、この機体で撮っていけたらなぁ、と思います。
老眼はもう治りませんから、これからはデジイチと、スナップ用のコンデジという使い分けになるのでしょう。
もういい加減に「カメラの森」から抜け出したい、煩悩だらけのワタシなのです。

2019年1月 1日 (火)

年初嘆感

元日の正午のニュースが「暴走自動車事件」から始まるとは。

どうやら新元号が始まる今年、あまり穏やかな一年になるとは思えない。
こういった凶悪事件が起きる背景には、必ず「未遂」もしくは「未必」を心に抱えている人間の存在がある。
実行をしていないだけ、実行されていないだけなのだ。

去年の渋谷でのハロウィンのバカ騒ぎもそうだった。
今年もどうやら、規制を無視してまで渋谷を歩きたい馬鹿が往来したらしい。
こういったことが起きた後に「マナーを守って」と宣う方がいるが、本質を見誤りすぎている。
彼らの頭の中には「マナー」などというものはない。
「公共意識」というものが、ちゃんと育っていないのだから。
その代わりに存在しているのが「アイツはよくて、なぜ自分は?」という「比較」だ。
幼い頃から自分の「立地点」を、他人との比較によって他者に「位置づけられてきた」結果が、今のバカ餓鬼どもを生み出している。

そうだ「餓鬼」なのだ。
「ガキ」じゃなくて「餓鬼」。
どれだけ食べても満腹感が得られない、地獄の使い鬼たち。
彼らを作り出したこの社会こそ、厳罰を受けるべきなのかもしれない。


嗚呼、目出度くない、目出度くない!。
今年もまた、一休宗純の歌を飾ることにしよう。

「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
一休宗純

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