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2020年3月

2020年3月23日 (月)

我々は最初の一歩を踏み出し続けて生きる

「宮城まり子」さんが亡くなられたとのこと。

 

何らかの形で、障害者福祉に自発的に関わってきた人で、彼女の名前を知らない人は、まずいないだろう。

彼女は日本で最初に、障害者福祉に「生産性」というものを加えようとした人だ。

それまでの「囲うだけの福祉政策」…「生かされる」から「生きていく」に、障害者の人生を導く先駆けとなった。

「ねむの木学園」は、当時としてはセンセーショナルな場所であり、その薫陶を受けた人も数えきれない。

 

彼女自らも、そして、彼女から影響を受けた多くの方々の努力があり、完璧とは言わぬまでも、障害を持つ人たちが、自らの意思で働き、そしてその手にした糧により、自分らしい生活を模索していくという「通常の人の暮らし」を送れることが可能な世の中に近づいてはきた。

課題はまだ山積しているけれど、それでも「最初の一歩」があるからこそ、今がある。

彼女はパイオニアとして、自らの人生を捧げ続けてきた。

 

生きる、ということは、自らが望む生き様を全うしていくことだ。

宮城さんも、そして彼女が関わってきた多くの障害を持つ人たちも、それは同じだ。

生き様は、誰かが「決めていいもの」では、決してない。

生きることを、具体的に何か形に出来ないとしても…意思疎通が困難である場合であっても、それは変わらない。

ただ、その時々に「生きていること」だけで、即ち人は自らを「訴えかけている」のだ。

誰かが「生きている意味などない」と判断をしたとしても、それこそ「邪推」でしかない。

まして凶刃を振るい、命を奪うことなどは「特定の生への拒絶」なのであり、即ち「悪」なのである。

 

小山田いく先生が他界され、4年目を迎えた。

「すくらっぷ・ブック」に引かれるようにして、先生の世界観に触れてきた。

それももう40年近くに渡るのだから、ただ驚く他に無い。

 

先生は「生命とは?」という課題を、作品の中に必ず織り込んできたと思える。

「すくらっぷ…」では「友情」という「仲間としての繋がり」の中に。

続編ともいえる「ぶるうピーター」の中では、ことに「男女の愛情」という主題を掲げて。

「ウッド・ノート」では、鳥という人間以外の生命への憧れや興味の中に、生命を描いてきた。

 

今、世界は「新型コロナウイルス」により、大きな変化を強いられている。

まるで腐食していくかのように、厚塗りされ隠されてきた「エゴ」が、ウイルスによって剥落されてしまう。

…しかしヒトは「自らがパンツをはくことを選んだサル」なのだ。

もう駄目だと絶望をするくらいなら、もう一度「洗濯したパンツ」を履きなおすことだ。

 

もし、先生が存命であったならば、この危機に対して「何か」をきっと描くに違いない。

もしかしたらそれをネット配信したりして、ユーザーに届けてくれたかもしれない。

 

「危機を訴える時代は終わった…これからは危機を拾いなおしながら生きていく時代なんだ」

 

…希望はどんな時にだってある。

最初の一歩を踏み出し続けていけるならば。

2020年3月19日 (木)

この頃(2020/3)

・肩が痛い

・両ひざが痛い

・目が不安

・その他もろもろ

 

…去年は正月早々、おなかの調子が長く悪かった。

それと「できもの」が臀部にできた(/ω\)。

肩が7月から痛み出した。

…これは3月現在、治癒率60%というところで、痛みはまだ残っているし、肩がよく上がらない。

ああ、齢は取りたくないよなぁ。

 

元々左ひざがポキポキ鳴るというか、音が出ていたのだけど、痛みは無かった。

しかし最近は膝の曲げ伸ばしに痛みが出るようになってきた。

運動不足が大きな原因だとは思うけど…うーん「56歳」って、果たしてどんななんだ?。

 

誰でもそうだけど、老化は未知の世界だ。

能天気な奴だから、頭の中はいまだに20年くらいは若い。

自分が36歳くらいの認識でいるわけだけど、実年齢は60代くらいなんだと思ってる。

TV番組でタレントが検査を受けて、余命何年とか言われる番組があるけど、あれもきっと大きなギャップを自覚するんだろうな。

 

あと数年で「赤ちゃんちゃんこ」だって!爆)

信じられないよ…孫?いるわけないじゃん、結婚したことすらないのに。

冗談ポイポイw

 

それでも残酷に時は流れるのね。

体という生命体も壊れ始めるのね。

まいっちゃうなぁ。

 

ひとりぼっちは嫌いじゃないんです。

たとえ一人で死んでしまおうとも、それはそれ、仕方ない。

象だって、猫だって、死ぬときにはひとり離れるじゃないですか。

病院のベッドだろうが、山懐深い場所だろうが、それも特に。

山頭火のように「分け入っても 分け入っても 青い山」なら、それもまたよし。

 

ただ「生きてる時間」が、勿体ないのです。

十分に頭を使いきれない、動けないということが勿体ない。

普通の生き方をしてきてないという「おかしな自負」みたいなのはありますが、それが即ち「自分のために」では無かったということが、いつまで経っても「喉の小骨」のようです。

 

新型コロナウイルスとの戦いは、私の予想を超えて「全世界規模」に拡大してしまいました。

テレビで一報を聞いた時「これは大事になるな」という予感は当たりましたが、ここまでとは。

この天災災禍の中で、それでもここから「何か」を見出せるのなら、それは人類にとっての福音たるや?とも考えたいのですが、残念ながら近視眼である現代人には、そこまで遠くは見えていないようです。

その証拠にマスクの買いだめや転売、トイレットペーパーまで一時買えなくなってしまうというのは、なんとも呆れ果てるしかないです。

 

人生56年…いろいろなことがありましたけど、それでも今感じているのは「たったの56年」です。

人間は、生き方を思い直すのに長い長い時間を要する生き物らしい。

その年月の中で私は生まれ、やがて死んでいく。

人生は無常…そうなんですね。

 

2020年3月11日 (水)

「めんま」は何故「あの姿」だったか

本当に今更ながら「あの花」の劇場版を見ている。

去年の年末に放送されたものだ。

 

作品自体はTV放送の再確認というか、焼き直しという感じで新鮮味は感じなかった。

有体に言えば「面白くは無かった」。

人気に乗って作られた感がある。

 

ストーリー自体はだからどうでもいい。

ただ「気付いた」部分が幾つかある。

疑問だった部分というか。

 

「何故、めんまは成長した姿で出現したか」

 

…これが今回ようやくわかった。

これにはまず「めんまと、じんたんの母との病室での会話」から始めなければならない。

 

ネタバレになるが「めんまが出現した理由」というのは「未練」にある。

それには幾つかの事実があり、その複合(人間の思いというのは大概が複合体だ)である。

しかしその中にも優先順位があり、一番「濃い」思いが存在する。

めんまの場合はそれが「じんたんの母との約束」にあることは、ストーリー後半で語られていることである。

 

じんたんの母は余命少ない身であり、彼女の未来の時間は少ない。

対して、めんまや「超平和バスターズ」の面々には、これからの時間がある。

彼女自身は、息子の友達が病室に遊びに来てくれていることが、生きる励みにもなり、反面「妬み」ともなっていると思われる。

息子との時間を長くとってあげられないのに!という、これはしかし母親としてやむを得ない想いであろう。

これにちょうど正対するように「めんまの母」は、成長をしたバスターズの面々に対し「自分の娘の命が絶たれたこと」への絶望感から、彼ら

が龍勢(花火)を打ち上げる計画を知り、それを「死者を弄んでいる」と判断し、憎しみを彼らに向ける。

二人の「母親」は、時間こそ異にしてはいるが、その核たる思いは「自らの分身」たる子供たちへの想いそのものなのだ。

 

過去、病室で語り合う「女性ふたり」がいた。

幼いめんまには、それが「どのようなものであるか」についての理解はほぼない。

しかし「女性同士であるがゆえに」共通である「意識」については、年齢差は関係なく、脈々と受け継がれていく「命の連鎖」というものの主

役たるゆえ、互いにシンパシーを有しあっていると言っていいだろう。

好きな異性に出会い、やがて子を成し、出来うる限りの時間を子供に向け注ぎ続けたいという共有項があるのだ。

 

自分への気遣いで「泣かない」じんたんを、母は嘆く。

泣けない子供にしてしまった自分を、母は後悔する。

それを「何故か」息子の同級生である「めんま」に語ってしまったのは、もしかしたら

「この子は自分の息子に寄り添い生きる存在になるのではないか」という「勘」を覚えたからかもしれない。

もちろんその時彼女は、目の前の幼気な子が早世するなどというようなことは思いもしなかったに違いない。

 

しかしそれは「思い付き」程度のものだったろう。

もしくは「そうあればいいのに」というような、息子への愛情ゆえの「贈り物」のようなものだったかもしれない。

だがしかし、その幼気な子供の口から出た言葉は、果たして彼女の予想を裏切る言葉だった。

「私が代わりにじんたんを泣かす!」…この言葉を単に「子供ゆえのこと、思い付きに過ぎないよ」というのであれば元も子も無くなってしま

うだろう。

しかし、自らの生命の灯が乏しい実感を抱いている母にとって、それは「命を紡いでくれる存在」の出現と映ったかもしれない。

母は狼狽し、そして心のどこかで安堵したのではないだろうか?。

「私の代わりになる人がいる」ことが、別れ行く人にとっては、どれだけ励みとなるだろう。

自らの手でどうにもならないことを自覚するが故に、その一言は「救い」足りえるのだ。

 

…これは二人だけの神聖な「約束」である。

違えることを許されぬ、大きな約束である。

それは「生死の壁を越えてでも」果たされねばいけないほどに、大きな約束だったのだ。

 

ゆえに…めんまは、バスターズと同じ「年齢」の姿で、じんたん「だけ」の前に現れた。

あの日、病室で交わされた「約束」は「貴女の息子との契りを結ぶ」という、謂わば「婚約宣言」だったから。

幼い姿のままで約束は果たせない。

だから成長した姿で現れたのだ。

…これは思い込みかもしれないが…あの日、めんまが病室で食べていたいのは「リンゴ」だった。

じんたんの母が剥いてくれていたリンゴを頬張っていたのだが…リンゴの「皮」を「切れぬよう」に剥き続けることは、命の輪廻ということで

の「隠喩」なのではないだろうか?。

 

しかしそれでも「生きていた上での経験」は、めんまには無い。

記憶は「あの時」から動いてはいない。

ただ「みんなと同じ姿じゃないとダメ」という「意識」が、彼女を成長させた姿として出現させたのだ。

 

 

 

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