松本隆

2017年11月 2日 (木)

松本隆「魔☆」紫綬褒章受章、おめでとうございます!

「松本隆 紫綬褒章受章!」

…ということで、おめでとうございます!。
暫く書いていなかったカテゴリーですが、受賞記念ではないですが、書いてみたくなりました。

私の青春時代を彩る「歌」…数々の歌がありましたが、それは「作詞家」で大きく二分できます。
中学時代から高校生まで、その多くの歌を手掛けてきたのが「阿久悠」さん。
そして、高校時代から二十代前半までが「松本隆」さんです。

阿久さんは「ピンクレディー」や「沢田研二」などの歌を手掛けた大ヒットメーカーです。
その歌詞は、とてもキャッチーな趣が強く、商品コピーのように「生活と密着性が高い」とても人間臭いのが特徴と言えるでしょう。
絵画で言うと「油彩画」のような、ゴッホのような強さと、厚さがある歌詞だと思います。
実体感が明確で、まるで「山」のようです。

対して「松本隆」の歌詞は「風」のようです。
目に見えぬ風のように、時に暑さ寒さを、湿り気や匂いを運んでくるように、知らず知らずのうちに囁き続けてきます。
水彩絵の具がかけられた画用紙のように、向こう側がまるで透けているかのような「風景」が拡がって見える。
生活感というものはあまり感じられず、どこか避暑地のような非現実的な世界が展開されています。

阿久さんの歌は、右も左も持ち合わせのない子供に「大人の世界」を垣間見せます。
大人が作る、大人のための歌です。
子供はそんな「大人の世界」を見て、大人に憧れを抱きます。

松本さんの歌は、それよりも「自由さ」というものを主題としています。
青春を今生きる人たちに、少しだけ上の先輩が様々な「経験」を教えてあげるような。
憧れの対象が、親の世代からより身近な「先輩」の時代へシフトしていく。
リアルタイムな感覚が、松本作品の特色でしょう。


思えば「木綿のハンカチーフ」からしてそうでした。
歌謡曲の作詞として、最初の大ヒット曲である「木綿」は、まさにリアルタイムの「青春物語」でした。
ただただ爽やかであり「別れていく流れ」を綴っているのにも関わらず、ただ明るくて透明。
「ポケットいっぱいの秘密」などもそうですが、とても「オトメチック」な歌詞が、時代にマッチしたということでしょうか。

「少女コミック」の時代を経て、松本作品はその色そのままに進化していきます。
その象徴的な歌い手が「松田聖子」でしょう。
「風立ちぬ」は、日本人に馴染みが深い「五七」の文体で書かれ、そして「色彩」というものを印象的に使うことで、そのイメージを喚起させるようになっています。
俳句や和歌などのような手法に近いものがありますね。
また「モノ」というものを登場させることで、そのイメージを借りてくるというようなこともやっています。
「君は天然色」など)。


作品群と、その歌詞が時代に愛されてきたことに、驚きを隠せません。
数の多さもさることながら、時にCFの音楽として、ドラマの主題歌などとして使われ(マクロスなどのアニメ作品も)長く絶え間なく耳に入り続けてきたということは驚異的です。
紫綬褒章受章の理由も、そう言ったところにあるのだと思います。

2014年4月18日 (金)

「ルビーの指環」を見つめなおす

私の主な仕事は、車の運転だ。
人を乗せ走るときもあるが、大半の時間は一人きりでの移動ということになる。

今朝もそういう状態だったが、何故だか急に「ルビーの指環」を歌いたくなって、車中で歌っていた。
「♪くもり硝子の向こうは…」というのが、今日の天気に似合ってるからということなのだろうか?。
…ちなみに「指環」であって「指輪」ではない。
また「ガラス」のことを「硝子」と漢字書きするのも、作詞者である「松本隆」の好みだろう。

さて「ルビーの指環」だが、これもまた「松本隆」らしい「言葉遊び」が随所に散りばめられている作品だ。

この作品、とても「色」というものを意識して作られているのがわかる。
「ルビー」「ベージュ」という具体的な色名が使われているだけでなく、「紅茶」というものから「茶色(琥珀色)」の想起があり…そして「硝子」に音が似ている「ガランス」という単語は、仏語では「茜色」のことを指す。
…彼は私の記憶では「仏語本の翻訳」をしていた時期もあったはずだから、当然こういった知識もあったろう。
これらの色がみな「暖色系」で揃えられているところは、大変に興味深いものが有る。


ルビーは誕生石で言えば「7月」の石である。
詩中では、主人公の男は「8月」にプロポーズをし、そしてその後、おそらくは結ばれた後、二年の月日の経過を経て、愛を終結させている。

これは「性急な愛」を物語っているのではないか。
誕生石を聞き、その後のプロポーズまでに「1ヶ月」しか要していないわけだから(もちろん1年後とかも有るのだけど…)まさしくルビーの「石言葉」である「熱情」と合致する。

ルビーや「茜色」がくすんで、色が抜け落ちていく中で「ベージュ」のような落ち着いた、もしくは「もの寂しい」色彩に変わっていく。
これは「さめた紅茶」の符号と一致する。
二年間の月日の中で、くすみ落ちていった「愛」という名の情熱。
鮮やかな赤色は、やがてベージュのような「ひたすらに薄い赤」となる。
…季節は、紅葉落ち果てる「初冬」というところか?。
風が吹き抜ける町には、最早鮮やかな色彩は見ることが出来ない。


当時、まだ青少年だった私は「ルビーの指環を捨てるだって!なんと勿体無いことを!」などと下世話に考えるのが関の山だった。
今でも確かに「勿体無いなー」とは感じるけれど、幾度かの悲しい恋を経てきているから「そういうこともあるかも知れないな」と、想像を巡らせるくらいの精神的猶予はあると感じる。

終わった恋に「熱情」は似合わない。
捨てるなり、換金するなり(笑)しても、まあ、バチは当たるまいか?。

…ちなみ、もうひとつ「遊び」があるとしたら…この「ルビーの指環」のイメージは、かの「石原裕次郎」と「渡哲也」の「二枚看板」を有してきた「石原プロ」に寺尾聡も所属していた、というところに有るのではないだろうか?。
あくまでも推測でしか無いが、裕次郎の「赤いハンカチ」そして、渡の「くちなしの花」という「二大ヒット曲」からのイメージ…「赤」と「指環」という「印象的なワード」をハイブリッドさせた作品なのかもしれない。
…あくまでも推測にすぎないのだけれど(汗)。

2010年9月 1日 (水)

「振り向けばイエスタディ」 太田裕美

またまた太田裕美だ。

「振り向けばイエスタディ」
は、作詞:松本隆、作曲:筒美京平というGコンビ+太田裕美の「パーフェクト・トライアングル」だ。

松本作品としては異例と言ってもいいような、率直な言葉の列が並ぶ作品になっている。
それゆえに素直に聞き手の胸をうつような、爽やかさを感じる。

三昔前のキャンパス・ライフは、ちょうどこんな風な風景が見られたのだろうか?。
私は大学に行っていないので想像の範疇を出ないのだけど、印象ではこの歌詞のように、外連味無い、自然で豊かな光景が当たり前だったのかもしれない。


「愛って何?若さって、何?」
…そう無邪気に若い恋人に聞く少女は、青春という豊穣な光の中で問う。
若い恋人は、どぎまぎする心を隠しきれず、狼狽しながらも答えを懸命に探している。
やがて朝の光がふたりの「問い」を溶かしてしまうようにして、その問答は終わる。
…再びの夜を迎えるまでの僅かな間は。


…時間が経ち、二人は離ればなれになり「あの朝の時」は永遠に戻らなくなった。
街で偶然に出会う二人の会話は、どこかたどたどしい。
言葉が流れるように唇から出てきた「むかし」は、二人の間では「思い出」でしかない。

「思い出は懐かしい友達」
…大きな川のように、様々なものを飲み込みながら流れ行く時間。
過ぎ去った「過去」は、最早川の流れに揉まれながら下っていく自分には、声も届かない故里の友人たちのようだ。

結婚し、苗字が変わったときに「何と呼んだらいいか」と「若かった恋人」は考える。
答えはもう、出ている。
どんなふうに呼んだとしても、それはもう「昔の君」への呼びかけにはならない。
…ただ「呼び方を変えなければいけない」という「小さな感傷」が、現実にまみれながら生きている彼に「針」のように存在しているだけだ。

そう…呼びかけても届かないことを知りながらの「さようなら」なのである。
振り向くほどに、昨日という日は遠くなっていくのだから。

2010年8月29日 (日)

「ピッツァ・ハウス22時」 太田裕美

「海が泣いている」は、正しく名曲だと思うけど、この「ピッツァ・ハウス22時」も、それに劣らぬ名曲といえるだろう。
しかし!どういうわけか「歌詞サイト」でまったく取り上げられることが無い!。
いや、正直参った…こうなればもう最後の頼み「風待茶房」だ!と頁をめくってみたら…こんな張り紙が…。

なんか…愕然としてしまっているところ。
参った、正直参った。
まあ、これは引退宣言でもなんでもないので「松本 魔☆」には、もうちょっと頑張っていただきやしょうか?。

気を取り直して本題。

歌詞は、これを見た各人が、ご勝手に「Youtube」とかで確認願いたい。
直リンクは、憚られるところがあるもので。


歌中に出てくるのは、男女のカップル。
深夜のレストランでの、二人の会話がなんとも言えず切ない。

松本作品で、いつでも一際光るのは「男女の別れの情景」そのものだろう。
男と女が交互に奏でる「心象歌」は、深夜の、おそらくはゆったりとした音楽が流れるレストランでも、気付かないほどに小さいものだろう。

小さく、皿の上でナイフが軋む音を立てる。
男は、その手を一度止め、再び今度は注意深くナイフを握りなおす。
その手は強張り、小さく震えてもいるかのよう。

女は男のネクタイ姿を褒めた。
服って、人を変えるのね、と、一言。
しかし「印象」が変わって見えても、どうにしようもなく変わることがない「現実」は曲げられない。
終わってしまった出来事たちを語る唇は、もう彼女には無い。

見詰め合うときに赤らめた両頬も、潤んだように濡れた瞳も、全てはもう過去の出来事。
店の名前の変わることは無く、壁の絵も同じままだ。
それでも、人の心は移ろいやすく変わる。

人が去っていった。
身近であった人たちも、そうではない素通りだった客たちも。
まるで燃え尽きた手紙の束が、ちりちりと煙に化けていくように。

コーヒーが二つ運ばれてきて、確かにひとつの「物語」が終わる。
ワインの匂いが、コーヒーの香りに消されるように。


寂しいね…人というのは。
近しいことで、結ばれることで、何かを求め合い…求め合っていく中で、何かを確実に削り取っていく。
残酷でいて、優しい遊戯(ゲーム)。

2010年8月28日 (土)

「海が泣いている」 太田裕美

…「恋愛(こい)」というものは、男女ともに「それぞれひとつずつ」存在するものだと思う。
どんなに仲良くいたとしても、二人の間には明確な「溝」が横たわる。
男には男の「こい」があり、女には女の「こい」があるのだ。

「海が泣いている」は、作曲を担当した「筒美京平」が絶句したという逸話を持つほどの「名作」だ。
その濃密で、強い心象性を持つ物語の展開は「歌詞」という世界を飛び越え、印象派の絵画か、もしくは旧い仏蘭西映画か、というような、内省性に彩られている。

主体として詞の中で語っているのは「女」。
彼女の想いが、詞の中の「ほぼ全て」なのだが、その「合いさ」には男の「仕草」が挟まれており、その結果として「海に来た二人」の行動が、我々にも通じるという仕組みになっている。


「プラトニック」という言葉は、得てして「純血宣言」などとも言われ、婚前の男女の交わりを否定するという「プラトニック・ラブ」と混在されがちだけど、もとよりは「精神的」というか、実体感は希薄だが、存在感そのものが希薄というわけではないものを指すための言葉だと思う。

そして、そういったことは日常的にも散見される。
「理屈」というものは、その最たるもので、実体は眼前にあるわけではないのに「説得性」というものは存在し、理屈で物事を動かすことさえ可能だ。
近年は「バーチャル」流行りで、最近は「3D映像」ブームだけど、こんなものは実は「理屈で構築された現象」に過ぎない。
「錯覚」を利用した、偽の映像に過ぎないわけだ。
また、より精神的にシフトした例では「二次元妻」などというものも、一部マニアの間では「生活の一部」として成り立っている。
アニメなどの「二次元世界の住人」と、ともに暮らすという意だが、こういったものは「プラトニック・ラブ」の極致と言えるかもしれない。
理想というものと「虚体」というものが合体した姿だ。
精神の世界だけで「交流」が行われ、肉体的な相互関係は全くないわけだから。
ある意味「神秘的な世界」とも言えるかもしれないが(汗)。

…ま、それはともかく。

閑話休題。
話を戻そう。

しかし、果たして「プラトニック」というものが「非現実的」というのは誤りであるということは理解していただけるだろうか。
男は特に「恋愛」というものの初期のこととして、様々な「理由」を元に「女性との肉体的接触」を固く禁じるところがある。
それは時に、友人との義理であったり、過去の恋人に対する後ろめたさだったりするが、ともあれ「そういったこと」は、おとこには「ありがちな」出来事だと思う。

男というのは、それが恋愛という人の本質的な行動であれ、その中に「理屈」を持ち込むことが出来るのだ。
だから「理屈」でひとり勝手に納得し、自分の欲望を諌めることが出来る。
しかしそれは、恋愛というものが「繁殖行動」の一環である、という「大前提」から比べれば、小さな「理由」でしか無いのも事実だ。
男は同時に「そのこと」の重大さというものもよく熟知している。
「海が泣いている」は、正しく「男と女の違い」で揺れ惑う恋愛模様を描いている点で秀眉と言ってもいい。

そして、この作品で、男として「胸にせまる」ところがあるのは、詩中の女性の「我慢」のいとおしさにある。
女性は「わかったうえで」男性の「プラトニック」を耐えている。
そして、それを許そうとする。

「答え」は既出なのだ。
わかりきっている「答え」を女性は持っているのに関わらず、男の内心を察しながら耐えている。
…ある意味、こういった女性は「理想像」に過ぎないのかもしれないが、この「二人」の風景を見ると「優しさ」という言葉で胸がいっぱいになってしまうのは何故だろうか?。

「プラトニック・ラブ」というものを、完全に昇華させようとするならばこういった歌になる、という代表的な作品だと言っても過言でも何でも無いだろう。
この歌を聞いてから、プラトニック・ラブというものを語って欲しい。
闇雲に否定することは、人として恥ずべきことだということを、この歌も語っている。


2010年8月17日 (火)

卒業の詞「卒業」 斉藤由貴

松田聖子の「制服」でもそうだが、松本作品で描かれる「卒業していく女性」は、皆強い。
卒業 斉藤由貴 歌詞情報 - goo 音楽

作詞:松本隆 作曲:筒美京平

この斉藤由貴の「卒業」でも、主人公の女性は「卒業式で泣くのは、本当じゃない」と、もっと辛い悲しみが訪れるだろう瞬間を待っている。

「待つ」ということは、ただ心待ちに、切なく待っているばかりではない。
結果的に、それが自分にとっては残酷な一瞬になろうとも、ただ「待つこと」でそれに耐えていける女性もいる。
男性にはおよびもつかないような「深い悲しみへの対処の仕方」というものを、女性は持っているのだ。

それに比して、歌中の「男の子」は、自分の「青春の証」というものを伝えようとするかのように、机にイニシャルなどを掘って遊んでいる。
男の子らしい行動といえばそうだが、何処の誰かが見るかもしれず、そいつがそれを手中の刃物で削りとってしまう事など考えもせず、ひたすらな行為を続ける男を、少女はただ虚ろな眼差しで見やっているしかない。
「二人の思い出」というものを、そんな安っぽい行為に転嫁して欲しくない…純粋な少女の想いなど「ガキ」な男の子には想像の他でしか無い。

松田聖子の「制服」と、斉藤由貴の「卒業」。
テーマのよく似た2曲だが、より「女心」に強くアプローチしているのは、この「卒業」のほうだ。
聖子ちゃんの「明るさ」や「未来」。
由貴ちゃんの「暗さ」と「過去」。
同じ女心を語っていながら、この2曲は主人公の少女の「性格」がまるで違う。
それは「歌い手のキャラクター設定」とかぶるところがあり、聖子だからこういこう、由貴にはこれでいきたい、という、販売戦略もかかっているのではないだろうか。


斉藤由貴を初めてテレビのCFで見た時のことは、鮮明に覚えている。
明星食品のカップラーメンのCMだったが「…なんか、らしくないぞ」というのが、ファースト・インプレッションだった。
この「らしくない」というのは「アイドルらしくない」だったり「芸能人らしくない」という意味あいだ。

ポニーテールで、どこか暗さがあって、今までのアイドルの持つ「快活さ」というものを一切感じなかった。
確かに可愛かったのだけど、むしろ「違和感」のほうが強すぎて、なんとなく座りが悪い気分になった。
この件のCMは、歌詞の刺激的なところと(胸さわぎ:中崎英也)、斉藤の「普通の少女」のイメージが重なりあい、それは「背徳」というものを、いつも身内に隠して興奮している、思春期の男の子の「幻想」というものを良く描き出していた。
つまり「CMの意図」や、購買層には極めて合致していたわけで、実際にこのカップラーメンはよく売れていた。
…私も何度か買って食べた!…エヘヘヘ(笑)。
買うときになぜか恥ずかしい思いがしたのを、今でもよく覚えている。
それくらいに「印象が強い」CMだったといえるだろう。

「卒業」は、彼女のデビュー曲で、それがなんと大ヒットしてしまうわけだから、彼女の資質の「底」というものがいかに深いかわかろうというものだ。
そして、この曲を作った「松本・筒美」のゴールデン・タッグは、この結果に溜飲を下げたに違いない。
「卒業ソング」は数々作られてきたが、この曲がトップ20に選択されないようなことは、これからもきっと無いことだろう。

2010年8月14日 (土)

卒業の詞「制服」 松田聖子

卒業がテーマになった松本作品ということで、いくつかピックアップしてみることにした。
ひとつめが松田聖子の「制服」。

制服 松田聖子 歌詞情報 - goo 音楽

作詞:松本隆 作曲:呉田軽穂というコンビになっている。
「小麦色のマーメイド」のときにも書いたが、呉田の軽快かつ流れるようなメロディーが、松本の詞の「ピュアー」な場所を良く支えていると思う。

この作品には、実は松本作品には色濃く出ている「言葉遊び」が殆ど無い。
これはテーマを考えるなら、さもあらん、という気もする。
卒業という純粋で、なおかつ、厳かな空間には、遊びの要素は不似合いだからだ。
冒頭の「卒業証書抱いた 傘の波に揉まれながら」の部分に、らしさを感じるにとどまっている。


しかし「卒業」というと、いくつもの歌が思い起こされるけれど、凡そ「雨の卒業式」というのは、記憶にない。
実際、私の記憶の中でも、卒業式が雨だったという記憶はなかった。
3月上旬という季節は、まだ多雨の時期ではないからだろう。

雨というものは、川の流れと同じく「洗い流す」という意味も持つ。
これは日本人の自然意識の中でも旧いものと言えるだろうが、この作品中では「雨」というものを「今までの思い出を流すもの」として、決別の意味を込めて使っている。

「別れ」というものは「出会い」そして「再生」の始まりでもある。
桜の樹の蕾が、雨にぬれて大きく成長していくように、新たな生活の中で春を迎えて、桜咲く中での活躍を誓い、そして祈る「彼女」の強さが心に沁みる。


後半に急激に転調する方法は「九月の雨」でも使われていた。
松本にとっての「雨」というものは、別れというテーマを語る上で、とても近しいものなのかもしれない。

2010年8月13日 (金)

「君は天然色」 大滝詠一

「…なぜこうも「はっぴいえんど」というのは」…などとボヤき混じりで、感じ入ってしまうのは、その「巨大な才能」故に他ならない。

細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂、というメンバーは「この人達抜きで、今の音楽シーンは考えられない」という巨人ばかりだ。
「はっぴいえんど」は「日本語をロックに乗せる」という、当時としては画期的なチャレンジを行って来たバンドだが、それには松本隆の「リズムに則った詞」というものが、大きく貢献している気がする。
空いろのくれよん はっぴいえんど 歌詞情報 - goo 音楽

通常、詞というのは「メロディー」に則って書かれるもので、それゆえに聞いていても違和感がない。

「な~ぎさに~し・ろ・いぱ~らそる~」
松田聖子の「白いパラソル」の一文だが、このメロディーはゆったりとした「スラー」の部分と「スタッカート」の部分を織り交ぜることで、広い情景と、その中で遊ぶ若人のイメージを出そうとする意図を感じるが、それに合わせるように「スラー」の部分を「なぎさ」、「スタッカート」のところを「白い」という形容詞を使うことで表現している。
とても「わかりやすく」情景を嫌でも想起させる作りになっている。

これに反して「はっぴいえんど」の時の詞作りは「リズムに乗せた詞作り」で、詞は「刻まれることを覚悟の上で」曲に乗せられている。
変な例えだが「白いパラソル」をロック調のリズムに乗せたら、きっと何を言っているのかわからなくなってしまうだろう。
曲と詞が「補完関係」にあるのが歌謡曲ならば、「はっぴいえんど」のそれは「抗争関係」であり、サバイバル・ゲームなのである。

それから時代は下って「はっぴいえんど」は解散し「日本語ロック」は「試み」としては成功したと思うが、完全な形での実現と普及は成されなかったようだ。
実際、現在のポップシーンを見る限りでは、英語と日本語のコンビネーションで、足りない隙間を補間するという「ハイブリッド」な手法が多く使われている。
さもなければラップのように「文体として成り立たない」けれど、日本語の(単語の)意味そのものに頼っての詞作りになっているだけだろう。


さて、大幅に回り道をしたが、本題に入りたい。

「君は天然色」
君は天然色 大滝詠一 歌詞情報 - goo 音楽

は、私が初めて出会った「大瀧サウンド」ということになる。
南国を思わせるような、豊穣でグルービーなアレンジが、今までの曲とは明らかに一線を画していると感じた。
それに乗せられた詞は、むしろしっとりとした、きめこまやかな「男の子のナイーブさ」で染まっており、ある意味での「カルチャーショック」を受けた曲だった。
…確か「わたせせいぞう」のイラストが、ちらほらと雑誌等の媒体に載り始めたのもこの頃だったか?。
「優しい男」というものが、世間的に認知されるようになった最初の頃のことだ。

ポラロイドで撮られた、正方形の小さな写真を見ながら、別れた少女の思い出を追う男、などというのは、一昔前ならば「女の腐ったやつ(…どんなんじゃそれ?とも思うけど)」なんて言われたんだろうけど、時代はもうすっかり「優しさ世代」にシフトしていたのだ。
女性は自我を強く持つようになり、男性は優しくあろうと腐心する。
現在の傾向は、もうこの時には始まっていたということになるか。

時代そのものも、このころは明るかった。
人が「明るさ」というものに飢えていた時代であり、望んでいた時代であった。

現在、我々は再びあの時代を望んでいるようにも思える。
今の時代が「モノクローム」の風が吹く街ならば、リゾートに居を構え、天然色の世界の中で暮らしたい、と。
…しかし、それは多分、きっともう叶わない「Over dream」なのだろう。
我々は新しい時代を作っていかなきゃいけない段階まで追い詰められている。
…ポラロイド写真にネガフィルムがないように、思い出の「焼きまし」は出来ないのだ、ということを噛みしめたいものだ。

2010年8月11日 (水)

「花一色~野菊のささやき~」 松田聖子 

この曲は「白いパラソル」のB面であり、映画「野菊の墓」のテーマ曲にもなっている曲だ。
花一色~野菊のささやき~ 松田聖子 歌詞情報 - goo 音楽

作曲は「チューリップ」の財津和夫。
しんみりとして、淡々とした曲に、松本にしては珍しい「五七五」の古典的な詞が乗せられている。

「You Tube」などで確認すると、ノスタルジックな曲には不似合いな「聖子ちゃんカット」がなんとも奇異だったりするのだが、それよりもっと驚かされるのは、彼女の「歌唱力の高さ」である。

松田聖子という人は「アイドル」であるから、CDなどでこの曲を聞くと、時に声を裏返してみたりして「いらぬ抑揚」を付加してしまうことがある。
それはそのほうが「アイドルらしさを感じる」という、作り手側の策なのであろう。
特に初期の彼女の歌には、こういった場面が多かった。
しかし、テレビなどで生歌を歌っている時の彼女は、そういった「愚策」をしない。
まっとうに歌い、歌いきっているのが印象的だ。

彼女の声は、どちらかというと低音寄りのパートにシフトしている。
まぁ、最低音域はさすがに苦しそうだが
(sweet memoriesの出だしなどがいい例だ)
中音域の伸びやかさは、出色と言ってもいいだろう。
この歌は「彼女の歌のいいところ」を、よく出しているという意味では「名曲」といっても差し支え無いだろう。


「…人の夢とペンで書けば 儚いって読むのですね」

以前に「にんべんのある倖せ」という文字を使った歌詞(九月の雨)のことを書いたが、ここではむしろそれを「説明的に」詞に混ぜることで、一文字の「意味合い」を強調している。
しかもただ「人の夢と書けば」とせず「ペンで書けば」と付加しているのが、松本流の「レトロジー」であり「詞のタイムマシーン」たるところであろう。
毛筆では江戸時代だし、万年筆ではくどすぎる。
単純に「ペン」(PEN)としたところが、ワードライターとしての凄さであり、リリカルを良く知っている人間の凄さである。

この詞は基本的に劇中歌であり、それゆえに伊藤左千夫の「野菊の墓」の世界観を壊すことができない、という宿命がある。
そういった意味ではかなりの制約を感じさせるところがあって、松本隆のテクニックを存分に振るっているとは言えないが、逆に「たった数行の言葉の列」で、歌の中の「主人公」の気持ちを描き出してしまう仕事は偉大と言っていいだろう。

2010年8月 8日 (日)

「小麦色のマーメイド」 松田聖子

…なんだかんだ言っても、筆者の好き嫌いは問わず「この人」なくして「松本隆」を語ってはいけないだろう。

「小麦色のマーメイド」
小麦色のマーメイド 松田聖子 歌詞情報 - goo 音楽

は、作曲「呉田軽穂」(松任谷由実のPN)、作詞 松本隆というメジャーコンビによる、メジャーシンガーへの提供曲である。

歌詞をよくよく見るとわかるのだが、この曲の背景になっているのは、実は「海」ではない。
「マーメイド」なのに「海」ではない、というところが、この曲のミソだ。

以前に山梨の…確か明野町…あの大きな「ひまわり畑」で有名だが…に行った時、多分コンドミニアムのようなものだろうか…プール付きの施設のようなものがあって、なぜか私が休んでいた屋内から、その「プライベートプール」が見えたのだ。
そこには若い男女が泳いでいて…正しく時はバブルの頃だったが、なんとも扇情的な感じがしてドキドキしたものだ。
不思議なことに、海で彼らのようなカップルを見ても、まるでセクシーな雰囲気を感じることは少ない。
明野町という「内陸の土地」で、しかもプライベートなプールに二人きりだからこそ、それが妙に色っぽく目に映るのだ。
この「小麦色のマーメイド」のシチュエーションも、どこかの高級リゾートのプールサイドでの出来事という感じがする。

松田聖子の曲には「海」を題材にしたものがとても多い。
彼女のシングルは「ワンシーズン一曲」というくらいに、回転が早かったのだが、特に「夏の海」を扱ったものは非常に多い。
「白いパラソル」「青い珊瑚礁」「渚のバルコニー」…いろいろな作詞家が曲を提供している。
他にも彼女には「高原」とか「スキー」とかのイメージが強いと思われるが、一番しっくりくるのは、やはり「夏」であり「海」だろうか。

これはある意味ユーミン…松任谷由実の世界ともかぶるところがあるわけで、松本がユーミンに曲を依頼するときに言った
「ライバルに曲を書いてみない?」という「口説き文句」は、シンガーとしての「それ」もあるのだが、一番のところは「同じシチュエーションが得意な人」という意味だと思う。

松本は、ユーミンの歌う「シチュエーション」を、少しだけ都会の雰囲気にシフトさせて詞を作った。
いや、もっと言えば、私が目撃したあの「プール」のように「避暑地の一場面」を使いたかったのかもしれない。

実は「松田聖子」という人は、案外と「小回りのきく歌い手」なんじゃないかと思う。
四季のそれぞれのシチュエーションを歌い分け、元気なポップスを歌い、バラードも歌える。
音域が広いわけでは決して無いが、いわゆる「うたごころ」を濃厚に感じる人なのだ。
それは「作り手」からすれば、とても面白い経験と言えるだろう。
実際、この曲でも「男の子をリードする、少し背伸びをした若い女性」の小生意気さ加減を良く出していると思う。


「小麦色」は、いわゆる「マーメイド」のイメージと合致しない(半分は魚なんだから、焦げてたら変でしょ(笑))し、この詞の中から見えてくる彼女は、ちゃんと「二本足」で、コンクリートのプールサイドに立っているのだ。
つまりこの「小麦色のマーメイド」というタイトルは「確信犯的なウソ」なんだよ、と作詞家は言いたかったんじゃないだろうか?。
それゆえに「海」という、自然の造形物ではなく、避暑地のプールサイドといったような「人工物」を背景にしたのだと思う。
…それはつまり、この歌詞中に出てくる男女の姿もまた「ウソ」であり、ゲームなのだと言いたかったのかもしれない。

「WINK」…片目を瞑る、という行為は「真偽が定かでない」もしくは「黒白がはっきりしない」あやふやな「答え」なのだ。
WINK×3…3という数字は割り切れない「奇数」であり、1という絶対、2という動かしがたい対、という特性を初めてはみ出した「ゆらぎ」なのである。

好きでもなく、嫌いでもない。
互いが求め合うという、恋愛のかたちをよしとしないなら、どこかに「第3の点」を構築しなければならないだろう。
それが「ウソ」という「グレーゾーン」の働きなのだ。

ただ、この歌の「ウソ」は、とても楽しそうだが…。


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