エネルギー問題

2014年5月14日 (水)

「から騒ぎ」もう止めようぜ?

今、ひとつの「漫画」が国を騒がせている。

「国」とは大袈裟に聞こえるかもしれないが、実際に政府の中枢にいる人達が、ひとつの漫画の「ストーリー」を巡ってコメントを発表したりしているのだから、事態は「滑稽」そのものだ。

どのようなことか?といえば…「美味しんぼ」…今までに「至高」「究極」の旗印を掲げ、バブル期のグルメの只中に在ったかと思えば、自然食ブームの牽引にもなった漫画である。
その「美味しんぼ」が騒がせたのが、今回のストーリー…「福島第一原発事故」による「放射能被害」と、被曝によるところの健康への影響について、だ。

主人公である「山岡」は、福島第一の取材の後、妙な「だるさ」を覚え始める。
そして「鼻血」を出してしまうが…それが「被曝によるもの」との疑いを持ち始める。
「前福島県双葉町長」の「井戸川克隆さん(67)」も作品内で、自らの体の具合に触れ、鼻出血が続いている、とコメントを行った。

それが「風評被害を助長する」とのことで、どうやら政府の逆鱗に触れたらしい。
中枢の大臣クラスの人間が、作品内容についての批判発言を行っている。
「そのような事実はない」「被曝と鼻出血は関係ない」ということらしい。


私自身は、今回の「美味しんぼ」のストーリーを読みきったわけではない。
昨日の「ニュース・ステーション」での特集を垣間見たくらいだ。
しかし、短い特集ではあったが、私の印象というのは明快だったのだ。

「今回の作品は、あくまでもフィクション、あくまでも想像に過ぎず、ひとつの「啓蒙」として捉えれば良い」

…という結論と相成った。

目くじらを立てて否定する「政治家」は「滑稽」だ。
「そんなことはありません!」と否定する医師たちも、もう少し寛容なところを見せられないのか?。

提案や、考え方、捉え方というものは、諸説あっていい。
「なんだなんだ!?所詮ただの漫画じゃないか?」
…と、そう思えないのだとしたら、その人はかなり切羽詰まった精神状態にあると言ってもいいのじゃないか?。

確かに、原発事故と被曝の問題は、シリアスな問題に違いない。
しかし、大事なのは「事実を厳格に捉えること」であり、それにいかに対処していくか?ということでしか無い。
誤魔化していけないのはもちろんのことだ。
風評が拡がることも、それは阻止せねばいけない。
故にこそ「膿を残すような身体」のままでいいのか?…もし、まだどこかが膿んでいるのだとするなら、それは「切開してでも」治癒されるべきではないのか?と思う。

「美味しんぼ」は「一本のメス」となった。
それでいいじゃないか?…きちんとしたデータを提供できるなら、農作物の売れ行きに影など差すまいに。
その「データ」のフォーマット作成を提供したのは「国」ではなかったか?。
基準値を作ったのは国であるのだから、それに準じた作物を口にできるなら、風評被害などと殊更声高に言うのは本末転倒というものだろうに。

国は自信を持つべきだろう。
「ただの漫画作品」に目くじらを立てるなど、狭量と捉えられてしまうとは思わなかったのか。
こういった事態に対するには、今回の反応はいささか「過ぎる」と思う人は少なく無いだろう。


政治家は、自らの情を軽々しく口にすべきではない。
口にしないということは、つまり「政治に対して殉じているのだ」との「心意気」でもあると思うのだが。
情を使って、世情を変えることは、最早政治とはいえないはずだ。
無論、それに軽々と流される国民の「質」というものも、同時に問われることになってしまうのだけれど。

…ともあれ。
今回のことは「水に流す」のが一番だと思っている。
互いが深入りすることに、なんらメリットはないし、もし「風評」を言うなら、それが流布されるシステムのひとつが「疑心暗鬼」だということを思い出さなければいけないだろう。
民衆は「事実かそうでないか」に限らず「安易な方に」流される生き物なのだから。
尤もらしい方向を信じてしまう、そういう特質があるのだからこそ、いや騒ぐことはむしろ「逆効果」なのである。

政治家も、マスコミも、漫画家(原作者)も…もう、いいでしょ?。
民衆こそは「信じられるものを、ただ信じたい」という、そういうものなのだからね。

2013年11月20日 (水)

「破壊」から「進化」を見つけ出さないで!

先般、小諸を訪れた時のこと。

いくつか「あれ?」と思うことがあり「ああ、時間は流れているんだな」と感慨深かったのだけど、印象的だったことのひとつに「太陽光発電施設」が多く設置されていた、というのがある。

小諸市は意外ではあるが「年間の日照時間が日本有数の場所」であり、また、高層建築物が少ないことや、日当たりの良い山の斜面などがあり、太陽光発電を行う場所としては優れているといえる。
公共事業としてはこのようなことも行われていて、建築物の屋根などの他にも、私が確認したものだけでも、国道沿いなどに2ヶ所の発電施設がありました。

小泉元総理の発言じゃないですが「即原発廃止」というのは、政治的な思惑などは抜きにして考えても「世界的スタンダード」な考え方として人類は選ぶべきなのです。
原発が、その燃料(まあ、燃えてはいないけど)に、そして「使用済み燃料棒」にせよ、また、炉そのものの消耗部品やら、整備に必要だった防護服まで…何一つとして「公共の場に放置できるものがない」という原発という施設を、本当であれば稼働してはいけない。
…こういうことを書くと、論理手管でいろいろとおっしゃる方もいるのだろうけれど、いわゆる「核のゴミ問題」というものは、今のところは早々解決可能なものでもないはずです。

解決可能じゃないものを「放置」しておくっていうのは、人にかぎらず「怠慢」だと思います。
我々人類は、ちょっとの怠慢くらいじゃ死ぬことは普通ないですけど、野生動物はその怠慢ひとつで、命を失ってしまうのです。
巣作りひとつで生命の危機ですし、少し傷を負ったからといって、求愛行動を止めたら、子孫は残せないわけですから。
野生には「他に生きるすべがない」わけで、それはヒトの言うところの「それ」とは、全く別ランクの切迫度を持っています。
だから、野生は怠慢などしない。
いや「出来ない」のです。

別に太陽光発電とか、他の再生エネルギーの活用とかが「最終回答」ってわけじゃないです。
きっとそれなりに、環境にとっての悪影響というのはあるんでしょう。
我々人間は、その悪影響というやつを無視することで、ここまで巨大になり、また傲慢になりました。
その傲慢さの「最たるもの」が「原子力発電」というやつだと、私は思います。

文明としての怠惰の最たるものが「原発」だとするならば、戦争というものもまた、同じように「怠惰」なのだ、と思います。
結果として力尽くせず、争いという原始的手腕で相手を屈服させることは、個人間であったとしても避けるべきものなのに、それを「国家の名のもとに」有無を言わせず戦禍に連れ去ることに「進化」というものはあるのでしょうか?。

…人はたしかに、この地球上で「一番歪んでいて、一番悪賢い存在」だとは思いますが、それでもそれなりに「愛情」というものを有し、互いの存在を讃え、手を差し伸べることも出来る存在です。
愚劣であるだけの「地球の癌細胞」などではありません。
人が、ひとの本質というものを見誤り、落胆していく中で、人は怠惰になっていきます。
誇りを持ち、明るく正しく道を征こうと欲すならば、その選択には戦争も、原発もないのではないでしょうか?。


「太陽光発電」は、私の中では「代替エネルギーの主軸」でも無いし、「究極のクリーンエネルギー」でも無いのです。
原発にせよ、太陽光発電にせよ、火力発電でも…本質的な「自然資源を人間が都合が良いように使う」という点に関しては同じことでしかありません。
ただ、太陽光発電は「太陽光」という、人の生存に必須な存在を受けねばならぬ、という「枷」が最初から設定されている分、自然からの「恵み」というものに対して真摯であらねばならない、ということは言えるのではないかと思います。
単純思考で「原発ダメなら太陽光」では、あまりに精神的に貧しいです。
「減らないものならいくらでも(奪える・使える)」というのもまた、至極貧しい思考ですね。
…実際問題として、例えば浅間山が噴火したとして、その「噴煙」が高高度に滞留してしまえば、太陽光発電の能率は大幅減となります。
この世に「減らないもの・消えないもの」など、何一つありはしません。

私は、福島第一原発の事故と、再生可能エネルギーへの着目というのは「神様が与えた最後のターニングポイント」だと思っています。
別に「文明の進化を止める」とか「過去への回帰」とかを言いたいのではない。
そうではなく「踏み外したもの、越えてはいけないもの」は、これから先は作ってはいけないし、依存してもいけない、と言いたいだけなのです。
「テラフォーミング」だ、宇宙エレベーターだと言う前に「目の前の雑草」の名前ひとつ、言えるようでありたいですね。

2013年10月20日 (日)

未来こそは楽しく!

メガソーラーを救う草食動物たち 雑草モグモグ…発電量維持と経費削減に貢献

…ああ、そうか、なるほどね~、と膝を叩いた。

素人なりに、太陽光発電の可能性と展開について、いろいろと模索しているけど「こういう方法」は思いつかなかった。
なるほど…事業の「ハイブリッド」の媒体としても、太陽光発電は使えるんだ。

そうなってくると、なにも「発電事業者」を作って、太陽光発電をやらなくてもいいんじゃないの?と思う。
太陽光発電…特に「メガソーラー」というものは、その「コストパフォーマンス」がいつも問題になってくる。
土地の確保とかにはあまり問題はないと思われるけど、送電のための費用とか、売電の問題とか、維持管理の問題とか、そういったところがあって二の足を踏んでいる法人や公人もあるのだ。

維持管理の中でも、確かに「パネルの下草刈り」というのは厄介だろうな?というのは、すぐに察しがついた。
山の中に敷設するわけなので、いうなれば発電所の周囲は「虫だらけ」だし、草の種子が飛び散っている環境だから、当然雑草が生えやすい。
雑草が生え、丈が伸びて、そのことで発電効率が落ちる、と記事には書かれているけど、そればかりではない。
一番怖いのは茎や葉ではなくて「根」なのだ。
根が土中に密生することで、土そのものが変化する。
ミミズなどが入り込みやすくなって、そのことで土が「フカフカ」になっていくのだ。
これは耕作としては理想な土地だけど、施設設備の場所としては不安定になってしまう。
あまり角度などがシビアなものではないと思うけど、パネルの支持体が狂ってしまうのは良いことではないはずだ。

だから下草刈りをしたり、ネットを張ったり、除草剤を撒いたりするわけだけど、下草を刈るには人の手がいるし、ネットは恒久的なものじゃないから張替えが必要だ。
除草剤の危険性は言うに及ばないし、大体が「メガソーラー」に適した土地というのは「日当たりの良い山の中腹部」だから、当然「水源」と重なりやすい。
除草剤がたくさん含まれた水は、直接人間が飲むことは少ないとしても、明らかに下流の農作物に影響を与える。

コストが嵩みやすい、ということと、自然環境への考慮を考えると、発電量からすれば、事業としての「メガソーラー」は不利だと私も思っていた。
だから太陽光発電については「自産自消」が一番効率が良く、省エネ化を合わせて実行していくことで、経営の安定化や、公人での予算削減に役立てていくべきだ、と言ってきた。
群馬県でも「中之条町における取り組み」には刮目できる部分が多く、その特質から「再生可能エネルギー」というものは、山間部などの地方に対して有用であり、これによって福祉政策などにかける予算を増加もできるのではないか?と考える。
…福祉、ことに「人口減少地帯」に関しての福祉には、案外と大きな予算が必要になるからだ。
国からの支出であるならまだしも、地方としての支出となるとこれは大きな「切迫材料」となってしまう。
その「足し」として、再生可能エネルギー事業は、過疎部ほど真剣に、そして速やかに展開していかなければいけない問題だ。
しかし「だからこそ」下流部の住人に対する配慮は必要不可欠となる。
その点をいかにするか?ということだが…記事のような「草食動物を飼育する」と言う試みは大変に面白い。
…以前に私が長野県の「国立野辺山天文台」に見学に行った時のこと。
巨大な電波望遠鏡のパラボラアンテナが居並ぶ敷地内で「牛」がのんびりと草を食んでいる風景が印象的だった。
その「長閑さ」に高原を感じていた私だったけど「こういう風景、良いなあ」と思う裏側には、どこかで「理想的な未来」というイマージュを見ていたのかもしれない。


牧草地の、日当たりが良さそうな場所に電池パネルを設置する牧場、というもの良いじゃないか?。
暑い日には、牛や羊が過ごせる日陰として機能するのであれば両得だ。
パネルの配置や形状も、支持体の材質やデザインなんかも、もっと工夫できれば良い。
「巨大なきのこ」みたいなものであれば、オブジェ的にも面白そうだと思う。
うん…もっと芸術家の方にも手を入れてもらって「美しい設備」になればいい。
機能一辺倒のものじゃつまらないから、人の暮らしと、自然との共生を図る意味で、楽しい物に出来ればいいな、と思う。

やはり、精神的な余裕が無いことには、いいものは出来ないし、いい考えも浮かばないだろう。
キリキリと精神的に追い詰めるような、そんな「仕事」をさせる人間に、自らを委ねるべきではない。
自らの未来は、自らで決める…それが大事なことなのだ。

2013年1月10日 (木)

過疎地とEV(3)

「過疎地EV化構想」について、もう少し詳しく書いておくことにする。

実は、今回の構想についての「主眼」というのは、ガソリンスタンドの消滅問題に言及してはいるけど、言いたいところというのは「過疎地は不便か?」という疑問の投げかけと、発想の逆転についてだ。

確かに、過疎地にはコンビニは無い。
ファーストフード店も無いし、下手すれば自販機も無かったりする。
ATMもなかなか見つからないし、夜間は使えない。
…ただ、それらを利用するのは「歩いて」もしくは「自転車などで」だから、その「行動半径」なんて高が知れている。
街部か住宅地でもない限り「そういった暮らし」は無理だ。

人口当たりで言えば、人口はそういった地域に集中しているから、利用率で見るならば少なくは無い人数だろう。
しかし「面積比」で言えば「利用が困難な地域」がほとんどで、そう考えるならば、ほとんどの人が早朝や深夜帯などは「買い物はしない」ということになる。
人口から見れば常識でも、面積から見ればそうではない。

小売業などは特にそうだが、人口が集中していない場所に店舗を構えるメリットは無い。
ネットショップや観光に関わる場合を除き、人口が集中している場所で無いと物は売れない。
今回のテーマ「ガソリンスタンド」というものも、これに類するものだ。


…では「面積があるのに居住している人が少ない地域」…過疎地などもこれに類するが、こういった場所に「人口を移動させる」事が可能ならばどうなるだろうか?。
現在は減少傾向にあるとはいえ、実際に人口の集中度は偏りが強い。
都市部など、確かにそこに居住しなければいけないという場合はあるが、それでも特別大きな理由無く(土地資産の問題が大きく影響してるんだろうけど)居住してるという人も多かろう。

しかし…実際に私が見てきた「東日本大震災」での、津波による沿岸部の破壊状況を見るならば
「…ここに人は住んでちゃいけなかったんだな」と思わざるを得ないところがあった。
もちろんそれは、長い長い時間が経過して「津波被害が人の記憶から消えていったから」には違いない。
だが今回の大被害から学び、そして講じなければいけないことは「住宅地を海岸沿いに作らないこと」であり、また、東京湾岸地帯のような「海抜0メートル地帯」での居住を許さないことではないだろうか?。
…誰でもそうだと思うが、生命の危機に近い場所に安心して居住できるものだろうか?。

「関東大震災」からかなりの年月が経過し、今の日本は間違いなく「活動期」に入っている。
今までほとんど地震が発生しなかった場所で、地震が発生している。
大きな地震が連なって発生しているのも最近の傾向であり、これは以前には無かったことだ。
…日本の人口は「少子高齢化」の影響を受け、減少傾向にある。
人口が少なくなる反面で、利便性偏重の暮らしを求め、危険性を無視した都市部に居住することのメリットはどれくらいあるのだろうか?。


問題なのは「インフラ」である。
どれだけ生活するのに「インフラ」への依存が必要なのか?ということで、人が居住できる「限界」というのは変わってくる。
これは個人的にも大きな偏りが存在する。

現在、田舎暮らしを指向する人は増加傾向にはある。
しかしそのほとんどの人が、いわゆる「リタイア組」だったり「現代社会から受けた傷」が元での「癒し」を求める人であったりで、理由としてはアクティビティーには欠ける場合がほとんどだ。
つまり「田舎で生き、産み育て、継ぎ、死す」という、一連の「人の生」という流れが、中途からであったり、繋がるような「展望」が少ないということだ。
これでは、過疎地などへの人口の流入は不可能だし、一度入っても、世代が変われば流出してしまうということで、過疎化の歯止めにはならないだろう。

大事なのは「環境整備」だ。
インフラを整えた上で、なおかつそれが「田舎に則したもの」でなければいけない。


徒歩でコンビニ、というのは無理としても、自由に街部に出かけられる「足」は無くてはならない。
しかし、ガソリンスタンドの経営も、おそらくは赤字覚悟でのことだろうし、それは省燃費自動車の普及に伴い、なおのこと困難となっていくだろう。

しかし、EVであるならば、充電は「自宅」で済んでしまうのだ。
自前で太陽光発電などの「再生可能エネルギー発電」を行えば燃料費用は「無料」ということもありえる。
もし、国と自治体が補助する形で太陽光パネルの設置費用を軽減可能であるならば、大幅な生活費用の削減が狙えるので、田舎に居住するというメリットも増大し、人口の流入の増加や、流出の歯止めにもなるだろう。
また、農業生産に関わる人員が増えるならば、生産量の増加も見込めて、国内消費のみならず、外国への輸出に対しても強化が出来るだろう。

…単に、交通手段のみならず「EV化」というものが過疎地域にもたらす「恩恵」というのが、どれくらいに大きな可能性を秘めているのか?ということがわかってもらえただろうか?。
ガソリンスタンドの継続のための補助事業では、今までと状況は変わらず、人口は流出し、過疎が進み、田畑が荒れ…と、様々な問題は拡大し続けることになる。
最近では、山の動物が街にあらわれる原因は「里山の消滅によるもの」と言われている。
街と山の中間での里山が無いから、野生動物はテリトリーの判断が出来なくなって、街に迷い込むのだ、というのだ。
里山地域=過疎地であるから、やはり過疎傾向の歯止めをかけていかない限り、問題は続発するだろう。


もう「田舎は田舎でいられない」状態にあるのだ。

今までの「田舎の暮らしは保持したままで、豊かになろう」という傾向や、レジャー事業などを受け入れるということでの「他人任せ、自然任せ」のアタマでいるならば…断言してもいい、村は消滅するだろう。

村の自然を売りにすると言う考え方もダメだ。

観光は、あくまでも「客が快適性を求められる環境」でない限りは、必ず資質の差が出てしまうものだ。
温泉の有る無しだけでも、差が出るし、失敗すれば金銭の損失の問題もそうだが「村の誇り」が失われることにもなる。
そちらのほうが村としてのダメージは大きい。
そのために、過疎化が加速した地域は山ほど先例がある。

快適な暮らしが出来て、農業だけではない、様々な職種の人が働き、居住できる環境…そういう環境整備をしない限り、過疎地の未来は無い。
そのために、昔ながらの繋がりが切れてしまうこともあるかもしれないが…それは「求めるならば叶えられん」ということだと信じたい。
祭りなどの行事を通して、人と人との繋がりを作ると同時に、古来よりの考え方や、自然の中で生きるということの厳しさなどを伝えて欲しいと思う。

実際に実行するとなると、問題は山積するはずだが…先人が残してきた「遺産」であるところの田畑や、自然の懐ゆえに可能な暮らしというものを、経済の流れの中だけで捨ててしまうような「罰当たり」に、日本人がならないために、鋭意努力するべきではないのか?。
…「EV」という存在は、その「起爆剤」としての役目を果たせるものであり、小さな一歩だが「大きな始まり」のための道具足りえると思う。

2013年1月 8日 (火)

過疎地とEV(2)

今回の問題が浮上する前のこと。
私は「こんなブログ」を書いている。
過疎地ではスタンドの経営問題は他人事ではなく生活に直結する問題であり、大げさではあるが「死活問題」とも言えるものだ。

過疎の村と街部での、自動車の必需性には大きな差がある。
農作業を行うには「軽トラ」が必要だ。
道具の運搬から、耕作のための機械から肥料類の運搬まで…軽トラが無いと、本格的な農業はまず考えられなくなる。
また、街まで買出しに出かけたり、たまにはどこかに遊びに出かけるときには、軽トラでは少し役不足だから、普通乗用車が必要になる。
…村の中だけで全てが完結するわけなど無い。
だからどうしても交通手段は必要で、それにはやはり自家用車というものを抜きには考えられなくなる。

それもガソリンスタンドの存在あってこそ、といえよう。
スタンドが無くなってしまう、ということは、一気に生活の質が落ちてしまうということであり、このままでいけば遅かれ早かれ「村の消滅」という異常事態が加速してしまうだろう。
それくらいに「ガソリンスタンド」というものが持つ役割は、過疎の村にあって大きなものがあるのだ。


だからこそ、早急に「EV化」を進めねばならない。

電気、というものが無い村落というのは、今やほとんど存在しない。
本当の奥地にあるくらいで、ほとんどの場合、ライフラインとして、電気と水道は整っている。
もし、電気が引かれていない場合であっても「自然エネルギー発電システム」というものを作れば良い。
EV車をバッテリーユニットとしての、発電消費システムが構築できるのだ。
「マイクログリッド」は、どんな山奥でも機能する。
人が住めるような環境であるならば。

逆にメガソーラとまではいかなくても、十分に太陽光を受けられる場所を「平地のそば」に確保できるならば、平地に「公共施設」を集約し「生活ステーション」の役割を持たせることで、そこを「コミュニケーションポイント」として活用するということも可能だ。

私のプランニングでは
・村役場
・福祉施設
・その他公共利用施設
…といった、村の公共施設の一部と同時に
・道の駅(コンビニ併設)
・レンタカー(リース)
などといった民間の施設も誘致する。

生活ステーションを作ることで、村の生活の拠り所を作り、サポートを行っていく。
それと同時に、外からの観光客などの誘致としての事業を行いながら、村の生活を外部の人間に啓蒙していくという働きも持たせていく。
…そして、それに必要なエネルギーとして「自然エネルギー」を使用していくのだ。

単にガソリンの代替としてのEV、というスタンスでも、今は一向に構わないと思う。
まずは普及させていくことだろう。
魅力的な車種、ユーザーに対しての「必然性」を持った車種を、メーカーが地道に作ってくれるならば、必ず販売は右肩上がりになっていくはずだ。

現在、ワゴン車しかEVは無いのであるが、営農用としてはどうしても「軽トラ」が要る。
EVの特徴のひとつでもある「シンプルな駆動系」を活かした軽トラが実用化されれば、徐々に切り替わって行くだろう。
日本の技術力があれば、こんなことは容易いことに違いない。


ガソリンスタンドという一職種と、過疎問題というものを併せ見ただけでも、これだけの「切り口」というものが見えてくる。
現在の日本は、たくさんの問題を抱えて混迷しているように見えるけど、しかし実際には「戸惑う気持ちが先」なのであり、慌てふためいて我を忘れている人が走る「パニック状態」というのが正しい見方と思う。
実際には、この国にはまだまだ大きなパフォーマンスがあって、それと向き合えるなら、日本はワンステップ上に行けるのではなかろうか?。

それにはTPPのような「他人任せ」の策に動かないことだと思う。
また「動かない」という意思を、国民が共有することだと思う。
誰かの言葉にフラフラと引き寄せられるのではなく、自分の見たものを信じていくという「こだわり」が必要なはずだ。
過疎、というところから日本を見るなら、それに気付けるはずだ。

…今は「黒船」に動じる時期ではない。
維新を口にするのであれば、内政を固め、アイデンティティーを着実に強化していくことだろう。
ナショナリズムではない…必要なのは「日本人としての「矜持」」だ。

2013年1月 7日 (月)

過疎地とEV(1)

「給油所の廃業加速か」との見出しに目が行った。
どうやら「老朽化したタンクの交換義務」の期日が、今月の末に迫っていて、その対応が事実上出来ない給油所が閉鎖の憂き目を見そうだ、ということらしい。

私はこの記事を見て「…そうだろうなぁ」と一人ごちた。
…それはそうだ…そうでなくても、最近のガソリンスタンドの経営は難しい。
原油の値段が乱高下するし、それに伴って値段の調整を行わなければいけないのだから、給油所も安定した利益が得づらい状態なのだろう。

しかもそれに輪をかける形で、様々な「減少要素」が覆いかぶさってくる。
低燃費車の出現は、エコロジーの見地からすれば良いことであろう。
しかし大きな不況の輪の中にある現在にあっては、燃費が良いということ=遠出ができる、という意味ではない。
むしろ「出かけること止む無し」の上で、仕方なく」チョイスするのが「エコカー」なのだ。
財布の紐が鋼鉄で出来ているように硬い昨今では、テクノロジーの恩恵もアクエィブな方向には使われない。
「穴埋め」として、使われるのに過ぎないのだ。

遠出もしない、ガソリン価格は不安定…消費が冷え切っているのを通り過ぎて「凍結」しているのが今という時代だ。
デフレスパイラルなどと持ち出すまでもなく、日本人の「ドケチ根性」の悪い面が発露してしまっている。
「倹約という名前のケチ」が、日本の消費力を下げているわけなのだが…まあ、それは今回は言及しない。

話を元に戻そう。

そういった「ケチ根性」のあおりを受けているガソリンスタンド。
しかし、それも消費者の数が多ければ、どうにか経営も成り立つだろう。
ガソリンは基本、薄利多売商品だからだ。

しかし「多売できない給油所」と言うのも確かにある。
たとえば「村にひとつしかない」給油所などというのがソレだ。
それでも、そういった給油所も「村のため、人のため」営業は続けてきた。
それを可能にしてきたのは、経営者の矜持と、それに「コストがかさまない」ということがあればこそだ。

しかしここで「タンクの交換」などという「難題」が持ち上がってきた。
「タンク3個交換で750万円」というのだから、ひっそりと山間の村で営業し続けてきた給油所にとっては、これはまさに「死活問題」だ。
…しかも、ここで問題になるのは「ひとりも百人も、給油したいのは同じ」という「当たり前すぎる」事実。
即ち「給油所を閉める事」は、確実にその地域の人にとっても「死活問題」となる。


私は群馬県に住んでいる人間だから、車というものの恩恵を骨の髄まで知っている。
車なくして、コチラの生活は「不可能」と言っても過言ではない。
街部であるならまだ、そばにコンビニもあるし、バスもある。
多少の不便は感じるが、しかし、生活できないということは無い。
しかし、より山間部のほうに住むのであれば、いかな農業を生業にしているとはいえ、地消には限度があるし、全くの現金の要らない生活などというのは、かなり浮世離れした話だろう。
…つまり、確実に「車」というものは必要になるし、また、無くて生活が出来るというものでもない。
現金収入を得るために、また、街に下りて「買出し」をするためにも、どうしても車というものは必要になる。

しかし…燃料が無くなってしまえば、車は走らない。
それを得る唯一の手段が「ガソリンスタンド」なのだ。
それがもし…消えてしまったなら…。

群馬県の西南部に「南牧村」という、小さな山村がある。
風光明媚で自然がいっぱいな、私も愛して止まない場所であるが、ここにはなんとガソリンスタンドが「1軒」しかないのだ。
以前にはもう1軒、JAのスタンドがあったが廃業した。
本当に小さなスタンドが残って、今も営業を続けている。

今回の「タンク交換の義務」が施行されたら、ここはどうなるのだろうか?。
私は詳しいことは知らないが、もし、交換を行わなければいけない羽目になったときに、この給油所はそれに応えることができるのだろうか?。
本当に、心配なところではある。

ガソリンを個人宅で多量にプールするのは難しい。
もちろん免許がいるし(危険物取扱者免許)場所と施設がいる。
それに管理は極めて危険なものだ。
地中深く埋めたタンクと、地上で管理されるドラム缶なら、間違いなくドラム缶が危険だろう。
ゆえに、個々人でのガソリン類の管理は難しく危険であり、現実的な選択ではない。


思わず頭をひねってしまう問題だが…しかし「光明」はちゃんとある。
それが「EV」…電気自動車の存在だ。
EVの大幅な普及で、この問題は解決してしまうのだ。

…次回「過疎地とEV」の順応性についての話しに続きます。

2012年9月20日 (木)

「自電化」しましょ! その八

今朝「現政府」は「2030年までの原発廃止」という文言の閣議決定を見送った、とのニュースが流れていた。
予想はしていたのだが「ああ、やっぱりね」という感じ。
こと原発の問題で、政治家は「信じるに値しない」ということを、自分の中で確認した。
…いや、本当にここまでやるとなると「狼少年」レベルですよ。

詰まる話
「自分たちの生活環境なんだから、自分たちで決めるんだ」
…というところに持って行かないと、やはり「決まらない」んじゃないか?という気がしています。
「民意」というものがここまでまとまっていない国も珍しいと思いますが…困りものです(>_<)。

「自電化」を言い出したのは「自分の求めるものを自分の手で」という、単純ながら「これから必要となってくるもの」を提言していくための「一部」としての試みです。
ですから「よりプリミティブに」森の中で、森の生活をするというのも良いし、素敵だと思います。
「無電化生活」というのも、これまた素敵ですね。

ただプリミティブな志向だけだと
「じゃあ、木を切るナタとか、どうやって作るわけ?」となってきます。
刃物とて結局は「電気無し」で作るわけにも行かず、何らかの形で「文明」は生活の中に深く入り込んでいるわけです。

原発はイカンとしても、その他の発電方法も、そして電気供給会社も「なくなる」ということはありえないと思います。
ただ「おんぶに抱っこ」では、また事故が起きる可能性は下がっていくことは無いでしょう。
だからこそ「電気を自分で作って使用すること」で「気付けなかったものに気付こう」という試みを加速していきたいわけです。


今、身近なところを見ると案外と「自家発電」というものがメジャーになっていることを感じます。
まだまだ屋根などに載せる太陽光電池パネルなどは高価ですが、小さくて、低消費電力のものであるならば、パネル付きの製品も多くなってきています。

また「健康志向」と「エコ意識」それに「倹約志向」のためでしょうか?…乗用車に乗らないで「自転車通勤」をする人が、私の周りでも増加してきているのがよくわかります。
ママチャリ、本格的ロードなど、雑多な自転車が朝の風景の中走っているのですが、その中には「電動自転車」も多く見られます。
…お年寄りが今まで、やっとの思いで漕いでいた自転車が、電気の力のアシストで颯爽と走っているのを見ると
「なんだか時代が変わったのかな?」と思えます。
人々がみな、この低迷する日本の中で「自分たちの愉しみ方」というのを模索し始める時代になっているのでしょうね。

これはとても重要で、そして「正しい」変化だと思います。

「文明が拓いていく未来」というものに対し、我々はあまりにも妄信的でした。
そしてその中に「快感」をもとめ、そしてなお「快感」を加速させるための装置として「電化製品」というものが作られる、という「循環」が成り立ち、それに何ら疑問を持たないままだったわけです。

何も起こらなければ…きっと「価値観」というものは固定されたままで、日本経済にも荒波は押し寄せては来なかったはずです。
しかし「3・11」の大震災は、確実にその「価値観」を破壊しました。
経済連などの団体を中心に「原発維持」の声は高いわけですが、少なくともこれからは「今までのようには行かないよ?」と、ひとりの「消費者」としては声掛けしてあげたい気分です。
実際には波は経済を浸食し、一部を破壊しているんですから。
ただそれは「リサーチしにくい」もの…消費者の「心の部分」なので、見えにくいというのもありますし、また「見たくないんだよ!」というのが経済人の本音かもしれませんが?。

ともあれ「ライフスタイル」は変化していますし、その兆しはあちこちにあります。
「収入が少ないなら、支出を抑えよう」
という「考え方の転換」は、ゆっくりと、且つ確実に始まっています。
…そしてそれはきっと、日本経済が「爆発的に回復」しないかぎり、止まる事などありえないと思います。


…ああ、また「前置き」ばかりになってしまう(汗)。
具体的なところを書こうとしたのですが、どうも無理そうです。
ちょっと集中的に書くのが飽きたというか^^;

今回で一度〆ますが、総括してしまうと

「「自電化」は、今までの生活の延長でも、代替でもなく、新たなライフスタイルを提言していくための鍵である」

…ということで、まとめさせていただきたいと思います。
生活の豊かさの「質」というものを、変えていく「鍵」になっていくということです。


2012年9月18日 (火)

「自電化」しましょ! その七

今年の夏は本当に暑い夏でした。
未だに最高気温が30℃を下回らないのですから、異常と言っても良い。
その割には去年散々マスコミが流していた「節電要請」というものも盛んではなく、状況はそれほど変化無いのに、追い立てられるような雰囲気はありませんでした。
こんなところからも「トリック」というか、我々が知らない「事実」というものがあるのだろう、という憶測も発生してくるものなのですが。

口だけの喧伝や啓蒙活動では、いかな「超お人よし人種、日本人」と言えども、そのうちに「白けて」しまいますよ。
そろそろ「超(スーパー)日本人」も「バージョン切れ」ってところですかね?(笑)。
こうなるともう、ゴリ押し、力押しの「権力主義」しかない、ってことですね。
…さて「次期総理」は、誰なのかなー?(怒)。

ま、そんなことはともかく(汗)。
「自電化パーソナル版」について書いていきます。

「マイクロ水力発電」などの「小型発電」について前回は書きました。
確かに小型発電施設を設けて、電力を節約しながら暮らせば「電気代タダ」(ランニングコストを除く)です。
しかし、見落としがちなのですが、発電には「場所」が必要です。
しかも「条件に見合った場所」が要ります。
昔の「水騒動」ではありませんが、みながみな、勝手に設備を作ってしまっては、必ず弊害がどこかで発生します。

家庭でできる「自電化」が、コストの問題や環境破壊の問題などからすれば、一番環境には影響が少ないはずです。
しかし、みながみな、ということだとそうも行かず、逆に個人同士の問題ですから、なにかと面倒くさい話になりがちになります。
「お宅の柿の木が!」なんてことで怒る人がいるわけですものね。
日本の全体問題だと怒らないのにね?(汗)。


考え方の一つとしては
「最初から、そういう街づくりを行ってしまう」
というのがあります。

群馬県太田市には「パルタウン城西の杜」という分譲住宅地があります。
すべての家屋に「太陽電池パネル」が設置されているわけですが…基本的には「余った電気は売電」という方式で、試みとしては「悪くは無い」のですが、ベストかというと私は首を傾げてしまうところがあります。

私は「発電した電気は公平分配」が、こういった場合の「基礎」だと思いますので、設置面積の問題もありますが、基本的には「屋根に設置する」のではなく、違う場所に設置したほうがいいと思います。
個人の財産ではなく、公共の「資産」とするべきです。

そして公平に分配する…電気を使う人も使わない人も「ワット数」に定量を設け、定量以上の電気をつかう場合は課金をします。
あくまでも「発電した電気」の価値基準は「公共性を有す」ものとし、各家庭で同一の「施設維持管理費」を支払い、徴収しながら運営される、という形になります。

つまり「参加型発電」というわけです。
気に入れば居住を考え、気に入らなければ住まない。
ゆえに、一戸建ての形態はとらず「アパートメント形式」のみ、ということになりますね。
これが一番「簡便に参加できる方法」という気がします。

個人レベルでの「発電施設の導入」というのは、コストがみな個人持ちですから、一般の家庭の場合はなかなかに「高価なもの」という感じになりますね。
そういったことも、太陽光発電の普及のネックになっているところもあるでしょうね。
今のところは正直「対費用効果」というものは薄いですからね。
ですから「公共財」にしてしまう、というのが先の考え方でした。
効率を考えた上でのアパートメント方式だし、公共財という考えた方が導入しやすいというのもありますね。


さて「いや、もっともっと我々は自然に近づかねばならない!」と言う方。
そういった方の場合はどうしたら良いでしょうか?。
もっと自由に…フリーダムな生き方を貫きたい場合は。

…そもそも人は「火」というものをコントロールできるようになり、自らが暮らす環境を「平地」へと移すことが可能になった、と言えるでしょう。
平地に住むということは、案外と難しいものです。
我々はもう、すっかり「文明」にどっぷり漬かってしまっていますからわからないのも無理はないのですが、平地と言うものは「身を隠す場所がない」ということです。
野生動物は、自分たちが「住みやすい環境」を選択することで、種を繋いでいるわけです。
小さな種は、高い木の上の「うろ」などに住処を設けます。
大型種は、食べ物が豊富な場所から大きく離れて住むことは、あまりありません。
同じように人類もそうしてきたわけで、ゆえに「大型種と出会わず、小さな動物を捕食できる環境」に住んでいたと考えられます。
そうなると「里山」と現在言われているような場所に居住していた可能性が高いと思われます。

先日知人と話をしていたのですが
「…縄文時代とかの人間ってさ、きっと結構「食われてる」方が多いと思うんだよな」
…そんな話を彼から聞いて、私も納得していました。
成程…アニメの「ギャートルズ」ではありませんが、どんなに人間がよってたかっても「ナウマンゾウ」相手に簡単に勝利できるとは到底思えません。
思うに「死肉」などを食べていたと言うのが、本当のところではないかと思います。
大型種の場合は、そんなところが関の山でしょうね。

では海辺などでの「貝類」はどうか?というと…これも「生食」が危険なのは現在でも同じですから、そのままで食したとは考えられません。
「加熱」しないと食べられないわけです。
しかし、捕食は簡単ですから、積極的に採っていた可能性があるし、実際に「貝塚」から発掘される量も膨大です。

おそらく当時、動物で食されていたものは「虫類」(今でも芋虫を食べる国は結構あるし、わが国でも蚕は食べられていました)、魚類(浅い川辺で思いっきり石を何発か投げ込むと、衝撃で魚が気絶することがあります)、蛇や蛙などの水棲動物…といったものばかりでしょう。
後は木に成る果実などを食べていた、と考えられます。

そうなると「住処」は「低山と平地の狭い範囲」が一番快適で、それが現在で言うところの「里山」になります。
狭い範囲内で生活していましたから、逆に言うならば「争い事」などがあったときに、逃走の果てに住居地を見つけることは困難を極めるわけです。

ところが、人間が「火」というものをコントロールできるようになったとき「大革命」が起きたわけです。
生食できなかったものが食べられ、生活範囲が海側…つまり「平地」に延伸しました。
平地には、他の動物たちもあまり居ません。
大型種は膨大な量の食料を必要としますから、平地でそれは賄えないのです。
ここから「人類」というものが「一人歩き」しだした、と考えることが出来ます。


そして「小動物を加工して」生活していた暮らしを破るように、大陸から「よりコンビニエンスなモノ」が入ってきます。
そうです…「米」などの「穀類」です。
穀類の何よりもすごい特徴は「保存が出来る」ということです。
このことで「飢える」ということから、少しだけ離れることが可能になりました。
しかし…この米などの穀類「意外なところ」に「困りごと」があります。
それが…「食べるまでの形にするまでに、多くの行程が要る」ことです。

それまでは貝でも魚類でも海草でも「煮る」ことで、即食べることが出来ました。
二枚貝は口を開けますし、魚類は細かく切ってしまって、土器の中にポイ、で良いのです。
簡単ですね。

しかし穀類はどうでしょう…収穫、脱穀も「手」というわけには行きませんし、石でできた「刃物」だと、稲束を数多く切っているうちには、必ず「刃が欠けて」しまい、使い物にならなくなります。
新たに刃物を作っている余裕はありませんから、自ずと「石以外のもの」で刃物を作らねば成らなくなります。
要は「金属製の刃物」が必要だということです。
銅やスズなどの材料は割と豊富にありますし、融点が低いので、精錬・加工は何とかなりました。
しかし、強度的にはあまり硬くありませんので、収穫が効率よく進むには「鉄」の農具の出現を待たなければいけませんでした。

鉄は融点が高く、砂鉄などを溶かして精錬するにも、かなりの火力が必要です。
しかし、湖沼の水辺などに生えている「葦」などの根元に付着していた「鉄バクテリア」の生成物ならば、案外と低い温度でも鉄生成が出来ました。
量は極めて少量しか出来ないのですが、それでも鉄の特性である「強度」と「粘り強さ」というものは、当時の人にとっては「福音」となったはずです。


さて…かなりの遠回りをしましたが…人間が「テクノロジー」によって暮らしを変え、そして「変えられてきた」ということはお分かりになられましたでしょうか?。
長々と大昔のことを書いたのは
「今でも人は、昔と本質的に変わってないんだよ」
…ということを「再確認」してから、電気というものと関わって欲しいと願うからです。

文化が変われば、暮らしも変わります。
要は「自分が選択していく「暮らし」というものは、何ぞや?」ということがキモだということです。
それを抜きにしての「自電化」は、当人にとって、あまり意味がない行為になってしまうだけだ、と思います。
節約なら節約に主眼を置いても良いのですが「何故に節約」なのか、また「節約した結果、何」なのか、を問わないことには「自分で電気を作っての生活」というものも、ただの「流行もの」でしかない、と思うのです。

そういったことを踏まえながら、楽しみながらの「自電化」を。
そう私は願いますし、問い続けてもみたいのです。

次回は「こんなんあるよ!」ということで。

2012年9月16日 (日)

「自電化」しましょ! その六

最初のころの回で
「「売電」に頼る太陽光発電事業」
…というものが、結果的に太陽光発電を難しくしてしまう、ということを書きました。

つまり「中間利潤」の問題であり、発電施設の会社、電気を買い取る会社、というものが、それぞれに「コスト」というものを消費している関係で、結果としてそれは「上乗せ」され、消費者が支払うことになってしまう、ということです。
現在、原子力発電所はそのほとんどが停止状態になっていますが、原油の値上がりなどや、猛暑などの関係もあって、コスト高になっているというのは確かでしょう。
そしてそれは実にダイレクトに「1割近い値上げ」という形でもって、家計を圧迫してきています。

「地球に優しい」というのは、実際に「身体の隅々まで染みている」人間が言うならば、それは真実味もありますし、発せられる言葉自体も重みあるものとなるでしょう。
しかし、本当のところ「そういった人たち」の立場は弱く、生活と引き換えにしてまで「それ」を通すのは難しい、という齟齬があります。

…どんなに「頭でわかって」いたとしても…映像でその姿を視聴することがあったとしても、実際の「大地からの恵み」というもの、母なる海からの恵みというものは、身体の中のほうまでは染み込んでは行きません。
自然の中で、文字通り「命のやり取り」をしながら、自然と付き合っていく人にしか、その「意味するもの」というものは理解できないと思います。
…無論、それを誰もが知ることができるならば、それが一番いいわけですが、それこそ「無理」というものでしょうね。


ほとんどの人が「自然の意味するところ」というものを、よくわかっていないわけです。
かく言う私そのものがそうです。
ほとんど理解していないわけです。

ですから「エコ」というものは、いつまで経っても「流行りもの」の地位から抜け出られませんでした。
まあ、それはそれでいいのかな?…誰もが百姓する必要も無いのだし…とも思いますし、それでいいのだろうとも思います。
ただし!「知識が無いままに」巨きなプロジェクトに乗せられ「エコだからね、地球に優しいからね」…では、あまりにも小馬鹿にされているような気がします。
なめられている気がしますね?。

原発が今のまま稼動し続けて良いと思いませんが、代償は払わなければいけないにせよ、払う相手を「間違える」ことは愚挙というものです。
だからこそ「自電化」…自分たちで作った「エネルギー」は、コストを重ねることなく、自分たちで消費したい。
自らが点けた灯火は、自らのためにこそ使いたい。
そして「自分が大切に思う人のために」こそ。


…これが私が「思い至った」これからの「エネルギーとの付き合い方」です。

「小規模発電施設」という考え方があります。
「マイクロ水力発電」など、身近なエネルギーを、身近なところで使っていこう、という「地産地消型サイクル」に基づいた考え方です。
現在はまだまだ実験段階で、高効率には程遠いところですが、今までの人間の知恵を考えたならば、本腰を入れれば「あっというまに」高度なものへと変わっていくはずです。

そして「生産し消費する」というサイクルだけではなく、その中から「人として生きていくこと」という、未来につながっていく「大きな意識」を持つというレベルにまで高められるならば…その先にあるものが果たしてどういうものかはわかりませんが、人間はひとつ、自らの「業」というものを軽くできるんじゃないかな?と思うのです。

「自電化」の本当の目的は「そこ」に存在します。
よく「再生可能エネルギー」といいますけど、実際には「消費されたものは還らない」ものです。
光エネルギーでも、それは同じこと。
時間という制約がある限り、今の光は昔の光ではないし、もう戻ってくるというものでもないわけです。

今という時間は二度は来ないのです。
その「意味」というものを身体に教え込むためにも、自分たちで「苦労」すること…機能そのものは技術向上で上がっていくわけですけど、機械は壊れますし、永続的なものではありません。

機械だけではなく、自然も毎年毎年同じじゃありません。
同じではないから、ダムを作ったり、原発という自然エネルギーに頼らない技術に傾斜してきたのが、高度文明国家の「やり方」でした。
「自然を管理する」という考え方があって、それ故にその「しっぺ返し」を食ってしまったわけです。
このままいくと、きっと人間は「他の星」を改造してまで、生き延びようと躍起になるでしょう。
それが「業」であるということを見ようともしないで。


自然とともに苦しみ、自然とともに歩くということです。

その「意味するところ」を判ろうとするには、自分たちが「シフト」していくことが必要となってくるでしょう。
他人任せにせず、自分たちで考え、行動し、自然の姿を間近に感じながら、生活していくということ。
言葉にすると大仰で、何か重く感じはしますが…とりあえずのところは深刻になる必要も無いわけですし、ゆっくりと、楽しみながら、向きを変えていけば良い、と思います。
「日本丸」は、大きな船ですから、そうそう早く転回させる必要はありませんからね。

次回は「パーソナルユーズ」での「自電化」のいろいろを提言、考えてみたいと思います。

2012年9月15日 (土)

「自電化」しましょ! その五

…もうキリがないので(-_-;)。
無理やり本題に行きます!。

…つまりこういうことなのです。
「バイオプラント」には、もちろんメリット、デメリットあるわけですが、デメリットを注視してしまうと、始まるものも始まらなくなると言うもの。
ですのでメリットと、その「具体的な使い方」」というものを書きます。

テーマが「自電化」ですので、当然、使用電力のほとんどを「太陽光発電」で賄います。
具体的に実現可能なのかどうかは、私は門外漢なのでなんともですが、技術は発展するためにあるし、発展させないのであれば初めからしないほうが良い。
「技術」というものは「業」を背負っています。
前回書いたように、人間は業を背負って生きてきたのですから、人間が杖とする「技術」というものに業が無いわけなど無いのです。
…もちろん「原発」のような方向性は論外だと思いますけどね。

…バイオプラントは、LED発光体を使って野菜を作るわけです。
もちろん、先に書いたように、植物も「生命体」ですから、環境が違う場所で生育されたものに、毒素などができないか?というと、これは疑うべきところがあるでしょう。
これも再々ですが、前の回に書いたように「どちらが果たしていいのだろうか?」というところでの研究や議論は尽くされて当然です。

LEDだけではなく、ポンプの動力や、温度調整のための電気も必要です。
昼間だけで良いわけではないですから、夜間の電力をどうするかも考えなければいけない。
もちろん、温度調整の機械そのものの技術革新も必要でしょうね。


他いろいろありますが、省きます。
さて「流通」というものを何度も言ってきたわけですけど、どうしても「ここ」を解決しないと、バイオプラントは意味が無いし、作る必要性も薄いのです。

なぜ「プラント」か?というところに答えはあります。
これも既出ですが、プラントは「街部に近く」作ることが可能です。
それも「大規模なもの」と考えると失敗します。
「中小規模のものを、街部のちかくに建設する」ことで、流通コストを省くのです。
そのための「プラント」…生産、検査、加工、洗浄…そういったものを「一箇所で」行うための施設なのです。

うん?…加工?洗浄??…と、ハテナマークが付く方もいらっしゃるでしょう。

…さて、果たして「物流革命の雄」とは、どのような企業だと思われますか?。
私は迷わずに「コンビニ!」と答えます。
コンビニエンスストアは、まさしく「物流と小売を密接にくっつける方法」でした。

阪神大震災のとき、いち早く稼動できたのはコンビニです。
物流網の確かさと、細やかさをもつ企業でなければ、あんなことは出来ません。
震災のときに果たした役割は「大」と言って良いでしょう。

今、ほとんどのご家庭は、家の食事を作ろうと言うとき「スーパーマーケット」に行かれると思います。
一家団欒、夕餉の時間、というならば、それが正解なのですが、最近の傾向はそうも行かないような、すれ違いが多い場合も多々見られると思います。
やれ塾だ、残業だ、共働きだ…これで「家族そろって」というほうが残念ながら難しいですね。

となると、メニューも勢い「冷凍物」なんてことになる。
しかし、やはり「サラダは新鮮なのが食べたい!」というのは人情です。
肉や魚はどうにかなるけど、野菜サラダはそうも行きませんよね?。

そこで…コンビニは今「新鮮野菜」を店頭に置き始めています。
それも「小さな量」を小分けにして、です。
これはそのニーズがあるからそうしているわけで、理由は「それでもやはり、新鮮なものが食べたいの!」という、ごく自然な欲求からでしょう。


では「新鮮で、すぐに買えて、時間を制限されないで、自分の好みのものが手に入る」には、どうしたらいいでしょうか?。
…そこに「地産地消」の概念が必要となります。
ただし「そんなにうまい具合に野菜が出来るわけないじゃないの?」というのが、ごく自然な反論。
そうです…今までのような「作り方」なら、それは無理です。

しかし「プラント」なら、それが可能です。
しかも「全てを一括して行う」ことで、コストを下げ、街部に近い場所で生産することで、燃料をあまり使わずに小売店舗まで持っていくことも出来ます。
場合によっては宅配すら出来るかもしれません。

今までは「新鮮さを維持する」という考え方の基で、ある意味「多大なエネルギー」を消費していました。
冷蔵庫もそうです…夜間配送のトラックもそうです…スーパーにも自前の大きな冷蔵庫がありますよね?。
これみな「コスト」なのです。
これらが少しずつ、製品に上乗せさせられて、結果的に高価になっていく。
おまけに地球環境に優しくないわけですね。
そして、家庭の懐に優しくなく、生産者にも優しくない。
…これは「飽食」と言うものが招いた罪であり「業」と言っても良いのではないでしょうか?。


「発想の転換」が必要なのです。
今まで膨らんできた「おなかの贅肉」を、徐々に減らさなければいけなくなっているのです。
しかし、いっぺんに痩せることが身体に良くは無いように、技術と言うものを捨て去ってしまうと言うことも、あまり得策とは思えません。

それと「豊かさ」というものも。
これも蔑ろにしてはいけませんし、楽しむこと、楽をするということは、人が生きていくうえでとても大事なファクターですから、あまりにストイックな生き方や考え方は困りものだと思います。

バイオプラントは、あくまでも「ひとつの可能性」で十分だと思っています。
これで何かが大きく変わって、たくさんの人が救われるというものでもないでしょう。
しかし「考え方」というもの、常識が新たに立ち上がると言うことは、無意味なことではありません。
大事なのは「見方を変えること」なのです。


次回はもう少しパーソナルな「家庭編」ということで書いてみたいと思います。
大事なのは「楽しく・豊かに」です!。


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