4、写真とカメラと人生と

2006年12月30日 (土)

写真とカメラと人生と 1

最近は「カメラ」といえば即「デジタルカメラ」「ビデオカメラ」を指すようになった。
両方とも「デジタル機器」で、電気無しにはまったく機能しないという代物である。

カメラが「家電量販店」で売られるようになるなんて、30年近く前には考えもつかなかった。
…いや、もっとも「家電量販店」なるものが「存在する」ようになるなんて考えられなかった時代のことだから、当然か。

「カメラはカメラ屋さんで買うもの」というのは 「野菜は八百屋さんで買うもの」と同じ位に当たり前のことだった。
だから、というわけではなかろうが、当時、新品のカメラをカメラ屋さんで受け取るときに「採れたての野菜」のような「みずみずしさ」を感じたものだった。

その冷たくて銀色に輝く、もしくは、漆黒のボディを手に取り「撫で回す」ように各部のパーツを作動させるとき…たとえば「巻き上げレバー(えっ、知らない人、居る?)」を、親指でひねるように回転させるとき、ゆっくりとひねり上げられたレバーがストップする間際の「カチン」という「小さなショック」を指先に感じた刹那、「エンドルフィン」が脳内から分泌され、撮影者は至福の快楽を…って、嗚呼、めちゃくちゃ長くなってしまった。
(ちょっと「田中チョートク先生」気取っちゃいました(^_^;))

このように(何が「このように」かは追求しないように!)
「昔のカメラ」とその「環境」には
撮影者の「フェチ嗜好」というか「自己満足」を充足させる「なにか」があったことは確か。
そして「撮影」というのは「儀式」のようなものに近くて、
「フイルムをカメラに入れたその時、カメラは「写真機」へと変貌して行く」のだ、と誰かがのたまわった通り(誰?)写真を「写す」という「行為」は「日常生活とはかけ離れた、一種の「特別な瞬間」として「撮影対象」にも、また「撮影者本人」にも密かな「緊張感」を感じさせるものだったのだ。
それが証拠に「昔の写真」と「今の写真」を見比べていただけると良くわかるのだけれど、「昔の写真」に写っている人はみな、一応に「緊張感」を感じさせる…なんとなく「不自然な笑顔」で笑っているようには見えないか?。
なぜならば「カメラの前に立ち、写真を撮られる」という「プロセス」は、今の環境とはまったく違うところから発しており、

Scan10058
1、「高価なフイルムを買い」
2、「これまた高価なカメラを持ってきて」
3、「またまた高い現像料が必要な」
4、「失敗するかもしれない一枚のために」
5、「必死でピントを合わせて」
6、「失敗したら「ヘタクソ!」となじられるかもしれない」
7、「生涯の「記念日」の、二度と来ないこの瞬間を!」
8、「確実に写さなきゃ、日ごろたたいた「大口」が」
9、「ふさがっちゃうのは…ひょっとしてアリ?」

という「万感の念」を抱きながら(笑)撮影者はその「一枚」に挑み、被写体たる人々は、その「孤独な戦い」を固唾を飲んで見守っているのだぁ(ジャーン!!)。

…ってなんだか「ゴジラのテーマ」が聞こえそうになってきたな?。
長すぎも何なので、今日はこの辺で!。
(続く)

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2006年12月31日 (日)

写真とカメラと人生と 2

今を遡ること20ウン年前。
当時「中学生」だった私は、教室で同級生に大きな紙包みを渡された。
手にとって見ると…ずっしりと重い。
彼の持ってきた「紙包み」の中身には、あらかた想像はついていた。

その中には「PETRI」という名前の「一眼レフカメラ」とその「レンズ」が入っていた。

皆様はご存知だろうか?。
「ペトリカメラ株式会社」というメーカーが、この国には存在していた。
「金が無ければぺトリかフジ」くらいに「安さが売り物」のカメラだった。

当時の「中学生の男子が欲しがるもの」として、この「一眼レフ」というものは「上位に」ランクされているもののひとつだった。
一番の憧れは「オリンパスのOM」というカメラで、世に言う「ニコン」とか「キヤノン」とかのカメラはまさしく「高嶺の花」であって、買い物の対象とはならなかった。
「OM」は、「コンパクトな一眼レフ」の走りのようなカメラで、その「独特な操作性」とあいまって「ティーンエイジャー」の心をがっちりと掴んでいた。
「いつかはマークⅡ」というCMコピーがあったけど、それに習えば「いつかはOM」といったような「未来の買い物」として、中学生の心をかき立て続けていた存在なのである。

「ぺトリ」のカメラは「最小限」の機能を備えてはいるものの、その「無骨」な作りといい、なんとなく「所有欲」を喪失させるようなカメラだった。
私が「ぺトリ」を選んだのは、叔父がたまたま「ぺトリ」を所有していたからで、レンズの交換性を考えて(つまりレンズを借りたいから)のことである。
資金面での問題も大きかったが、そちらのほうが本筋に近かった。

貴重なフイルムを買い、そして「滅多に持ち出したり」しないで大事に使った。
前にも書いたが「フイルム」と「DPE」の値段は、今と比較にならないほど「高価」であって、
「カレンダー・フイルム」なんて言って「四季の風景」が、まんま一本のフイルムに記録されていた、ということも稀なことではなかったのである。

どこかに家族で旅行、とか「イベント」が無い限り、カメラにフイルムが通されることは無かった。
レンズだって「標準レンズ」一本きり、という「きわめてシンプルな」装備だけだった。
「何のための「一眼レフ」かわかんないよなぁ」、と当時も思っていたくらいだったけど。

それでも「ダンボールに布張ったみたいな」カメラバックにカメラを入れて、「撮影係」を気取っていた少年は、
「撮影することの意義」みたいなものを全身に感じて満足だった。
家族の旅行を記録することの重要さ」みたいなものを胸に抱きながら、それが
ちっぽけな、ささやかな行為」だなどとは露も思わず、胸を張って旅行に同行していた。


食い込む硬いベルトも苦にせず、ガチャガチャと、歩くたびに前後にゆれる角張ったバックを肩に下げながら歩く。
弟は母の隣にくっついたままで、少年はどこか少しだけ「真剣なまなざし」を前方に投げながら、その後ろを歩いて行った。

「自分の出番を、心待ちにする兵士のように」
(続く)
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2007年1月 1日 (月)

写真とカメラと人生と 3

「望遠は遠くが撮れて、広角は広く撮れる」くらいの知識しか、高校時代まで持っていなかった。
「写真を撮るのは好き」でも「写真の知識は無い」という状態が、ずいぶんと長かった。
高校で「しょうがなく」入った「写真クラブ」
(生徒全員が何らかのクラブに所属する決まりがあった)
で、顧問の先生に「小馬鹿」にされてから、すこしづつ「知識」を蓄積していったのだ。

高校を卒業後「社会人」となってから、いわゆる「専門誌」を毎月購入するようになった。
かといって、ほぼ毎月購読していたのは「モーターサイクリスト」という、バイクの雑誌だった。
カメラ雑誌は「気が向いたとき」に買っただけ。
なので、「専門知識」がつくようになるのは、まだ先のことになる。

「PETRI」の次に買ったカメラは「キヤノンA-1」という「ハイアマチュア用」カメラだった。
「ブタに真珠」というか「ネコに小判」というか、今考えても「分不相応」なカメラだった。

さて、「あれ?OMが欲しかったじゃないの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。
当時「名よりも実」というか「無駄が嫌い」な人だった私は「叔父」が買い換えていた同じキヤノンの「AE-1+P」というカメラの「望遠レンズ」が使いたくて、同じ「キヤノン」以外のカメラを選択する気がまったく無かったのです。
…でも、だいたいそんなものですよね?。


「使いこなせている」とはまったく言えないままに、それでも「旅の友」として活躍してくれた「A-1」だったのです。
ある冬の日、私は「相棒」と一緒に軽井沢へと出かけました。

高崎駅から信越線に乗り「碓氷峠」を超えると(当時、信越本線は日本海まで抜けていた)、白銀の軽井沢が目に飛び込んできました。
駅のすぐそばに「矢ケ崎公園」という、小さな池のある公園があります。
その「公園」で「軽井沢氷祭り」というものが開かれていました。
TVでその模様を知った私は興味を引かれて、そそくさと支度をし、朝早くの列車に飛び乗ったのです。

そのとき私にはひとつの「たくらみ」がありました。
初めて「氷像」を撮るのだから、透明感のある「スライドフイルム」で撮ってやろう
フイルムは現地で買えば良いや、軽井沢は街なのだし、と、計画性が有るやら無いやらの「行ってこい」の旅の始まりでした。


駅を降り立ち、会場へ向かいますが、その「おりおり」の写真屋さんには「スライドフイルム」が置いてありませんでした。
仕方なく国道を西へと向かって歩き、そこいらでは「少し大きめ」な、スタジオを併設してあるような写真屋さんを見つけて入りました。

「いらっしゃい!」と、応対してくれた店主さんは、笑顔の優しそうな方でした。
棚には「コダック」「フジ」「サクラ(現コニカ)」の各メーカーのフイルムがそろっており、選ぶのに迷うほどでした。

私は頭を抱えました。
なんといっても「商品知識」が無い「準素人」のことですから、フイルムを見て「これ!」といいきることが出来なかったのです。

「うーん…」と腕組みし迷っていると、
「フイルムですか?」と店主が声をかけてくれました。

「…はい」「何がいいですかね」
「それが…決めてないんです」「?」
「わかんないんです…知識が無くって」
「…何を撮られるのですか?」
「氷像、です。軽井沢の…」「ふーん、成る程」
 
では、と取り出してくれたのが「コダック」の「KR」というフイルムでした。
「…白がよく出るし、きれいです。保存性も良いですし」
とのことでした。
「お値段は?」は、と聞いたところ、ふだん使っている「ネガフイルム」の2倍近い値段に少しびびってしまいました。
他のフイルムは、といえば、少し安いか似たかよったりという所でした。
店主さんのお勧めでもあるし、と私は「KR」を買い求めることにしました。
その間、多分15分くらいは店内に居たでしょうか?。
店主さんは飽きることなく、この「素人」に付き合ってくれました。


撮影の結果は、といえば「どうにかなんとか」というレベルで「作品」というのは程遠いものでした。
マウントにセットされて戻ってきたフイルムは、ぶれたり、露出オーバーだったりで、ちょっとだけガッカリしました。

今でも「そのとき」のことを思い出せるように、あの「フイルム」は残してあります。
結果なんて、どうだっていいんです。
あのときの「思い出」が大事なんですから。

…店主さんが言ったように「KR」で撮った写真は、今でも色あせていません


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2007年1月 2日 (火)

写真とカメラと人生と 4

人間というのは「何かを覚え始めたときから」迷走というものが始まるものらしい。
「片思い」から脱却し「両思い」の良さを知り始めると「嫉妬」やら「不安」やらが頭をもたげてくる。
Image4
恋愛にしたって「迷走」の罠から抜け出すのは容易なことじゃない。

カメラ選びは恋愛に似ている」と
誰かが言っていたような気がするが、
成程「浮気性」の私は、やはり、
「人生の連れ合い」に巡りあうまでの期間が、長かったような気がする。

まぁ「カメラ選び」は「相手と別れた」からといって「慰謝料」を取られるわけじゃ無し、
逆に「中古屋さん」に「嫁に出せば」お金をいただけて、生活費の足しに出来るのだから、気楽なものだけど。
もっとも、その「気楽さ」ゆえに、また「嫁」を貰ってきたりしてしまうのが…しょうもないところ(汗)。


「キヤノンA-1」は、その後
「ペンタックス スーパーA」というカメラに取って代わった。
A-1の「ファインダー」が自分には合わないな、とわかったからである。

しかしこの中古で買った「スーパーA」が曲者だった。
「あっという間に」故障続き。保証が無かったことも痛かった。
結局、ついてきた「アクセサリー」と、レンズのみを残して、ボディとは「サヨナラ」になってしまった。
「このやろー!」と買ったお店を恨みたかったが、仕方が無い。
当時の中古屋さんとはこんなもので「当たり外れ」の博打みたいなカメラ選びが普通だったのだ。


それからは暫く「ペンタックス遍歴」が続く。

ペンタックスは「とにかく安い!」カメラだった。
中古屋では「ニコン」「キヤノン」は別格扱いで、新品と比較しても「高い」メーカーだった。
それに比べると、レンズ、ボディとも「豊富な在庫」を抱えながらも「安価な」ペンタは、私のように「浮気性のある」「貧乏人」にはもってこいのメーカーだったのである。

カメラのことをあまりご存じ無い人でも「ペンタックス」はご存知のことと思います。
その「安価」さゆえ「ニコンやキヤノンに比べて、二流のメーカー」と「誤った」認識を持たれている方もいらっしゃるかもしれませんが、
「アマチュアを対象によく考えられた」機能とデザインを有し、その「光学性能」も、けして劣るものではありません。

私自身は「耐久性がなんたら」というほどカメラを使用していない「趣味人」でしたから、中古で「壊れても止む無し」のカメラで十分満足で、また、
「壊れたら次の彼女と…」ラブラブすればいいや!という「はしたない」人でした(カメラに限って、ですよ!)から、
「実用的に買えて使える」ペンタックスは「渡りに船」だったのです。


結局、都合「7台以上」のペンタックスカメラを使いました。
壊れたものもありましたが(ほとんどが中古品)、中古屋さんで引き取っていただいたものが殆どです。

バイクの「タンクバック(ガソリンタンク上にくくりつけるバック)」に、合羽などと一緒に詰め込んで、いろいろな場所に行きました。
小さくて、コンパクトな「システム」が組めるペンタは、バイク乗りの「相棒」としても「優れた適性」を見せてくれたのです。

私のまさに「青春のカメラメーカー」と言えるのが「ペンタックス」でした。
(続く)


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2007年1月 4日 (木)

写真とカメラと人生と 5

「ペンタックス」のカメラは「Kマウント」という「公開マウント(注)」を使用しており、他メーカーとの「互換性」があった。
それゆえに「サブにもう一台ほしい」とか「違うメーカーのでもいいから、こういうレンズが欲しい」などという要望も叶えやすかった。
「カメラ物欲」にすっかり「侵されていた」私は、なおさらに「ペンタックス地獄」から抜け出せなくなっていたのである。

そんな折、私に囁きかける「もう一匹の悪魔」が近づいてきていた。
「パチンコ」と呼ばれる、カメラなんぞより「遥かに強力で」「魅力的な」悪魔である。
私はこの「悪魔」に「身も心も「お金」も」もぎ取られつつあった。

会社勤めをし、多少なりとも懐に余裕のあった私は、会社の休日をほとんど「パチンコ屋」で過ごしていた。
そればかりではなく、会社が「はけた」あとの夜、パチ屋さんに寄って「閉店まで」粘っていることも多くなっていった。

「負けたこと」というのは、けっこう「根に持ってしまう」ものだから「次の休日こそは…」などと復讐心に燃えてパチンコ屋の自動ドアをくぐるのだが「返り討ち」にあうことも多く、失意の日曜日を過ごすことも多かった。


当然、今までによく行っていた「カメラ行」に出かけることも少なくなり、同時に「パチンコ資金」としての「手持ち」を省くことも考えられなかったのでカメラを「買う」ことは少なくなった。
それどころか「資金」を捻出するために、手持ちの「愛機」を売りに出すこともしばしばで、カメラにかける「お金」は、ほとんど「ゼロ」と言った日が続いた。

たまたまパチンコで「大勝」したときだけ、中古屋をのぞいた。
そんなある日のこと、中古屋で出会ったのが「リコー」「XR7」というカメラだった。

「XR7」は、リコー(コピー機とかで有名ですが「理研光学」という会社が前身で、カメラを専門に作っていたのです)の比較的「安価」な一眼レフで、それゆえに学生に人気のあったカメラでした。
その「プラスチックまるだし」のボディは、お世辞にも「高級感」とは無縁な「実用品」としての趣しかないもので、もしも「お金に余裕があったならば」私でも「見向きもしない」カメラでした。

そのとき私は「レンズがあってもボディが無い」というほど、金銭的な余裕が無い状態でした。
愛用のペンタックスの「レンズ」のうち「手放せないなぁ」という思い入れのあるレンズだけが辛うじて残っていたのです。

私はこの「リコー」のカメラを買いました。
2万円はしなかったと思います。
そして、この「実用品」カメラで撮影を始めたのですが、今までとは「違う」何かを感じました。

「…なんだろ?妙に気持ちが軽いような…素直なような」

「巻き上げレバー」の「軽さ」は、同時に「頼りなさ」を想起させるものでした。
「シャッターの感触」は「パッコン!」とお粗末な音を発しましたが、手に感じる「ショック」は柔らかで、優しいものでした。

手触りもざらざらとはせず、偽物ではありますが「レザー仕上げ」の感触は暖かで心地よかった。
「カメラ」と言うよりも、やや大袈裟ではありますが「生き物」それも「哺乳類」のような血の通った「暖かさ」を感じる「カメラ」だったのです。

初めての経験でした。

カメラに「温もり」を感じるのです。
精密部品で構成され「無菌室」のような工場で組み立てられた「カメラ」が、人間のように「温かである」はずはないのですが、私にはそう感じられました。

この「XR7」を買った頃の事ですが、家族に「不幸」が多くて、つらい毎日を送っていました。
仕事も投げやりがち、パチンコで憂さ晴らし、と、今思うと「荒んだ心」で毎日を過ごしていたのだと思います。
そんなとき出会ったからでしょうか?「XR7」と連れ立って、私は「小さな旅」を再開し始めました。
お気に入りのレンズとお気に入りになったカメラで、花を撮り、海を撮り、街を撮り歩きました。
そして、私の要求に逆らわず、素直について来てくれる「相棒」を愛しく思いました。

「XR7」は現在手元にはありません。
3台の「XRシリーズ」を続けて購入して使ったのですが、全て「寿命」を全うしてしまったのです。
「リコー」自体も「一眼レフ」を作らなくなって久しく、残念なのですが、その「思想性」のようなものは、現在の「デジカメ」にも反映されている感じがして、嬉しい気がします。

「リコーカメラ」は「家族が使うためのカメラ」なんですね。
だから「やさしさ」と無縁なカメラに仕上げてはいけない、と技術陣の方々は思いながら作っていらしたのだと、私は影ながら信じています。
(続く)
Scan10234

(注)カメラとレンズを「繋ぐ」接点の部分は「マウント」と呼ばれており、メーカーによって「形状」が違うことが普通である。
「ペンタックス」が使用している「Kマウント」は、その「規格」を公開しており、他メーカーでも使用することが出来る。
採用している主なメーカーには「リコー」「コシナ」などがある。


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2007年1月 5日 (金)

写真とカメラと人生と 6

「オートフォーカス一眼レフカメラ」を初めて触ったのは高崎市の、ある古いカメラ屋さんでの事だった。

その「AF一眼」は「社会現象」ともいえる程の「ショック」を日本中に与えた。
「ミノルタα7000」の生誕である!。

当時「一眼レフの自動化で、最後になるのはAF」と言われていて

「実用になんかならないよ!」
「ピントくらい自分で合わせろよ!」
とか他メーカーの「オートフォーカスもどき」の「半自動焦点合わせカメラ」は、散々な罵詈雑言を、当時のハイアマチュアから浴びせ掛けられたものである。

「一眼レフカメラを操れる」ということが、未だ「ステイタス」だった時代だから、それに対する「自負」というものが、まだまだ「カメラマン」には有ったのだ。
「ピントあわせ」という「技」は、まさしく「最後の砦」だったわけで、それを「下らないからくりで茶化すな!」というのが、彼らの言い分だったのかもしれない。

私自身はピント合わせに絶大なる自身が有った訳でもなく、「自動化」というものにも「無頓着」であったから、
「おっ!凄いのが出たな!」というのがCFを見たときの偽らざる気持ちだったし、
「本当にうまいことピント合わせてくれるんやろか?」とか
「えろう高うて、どうせ、アチシには買えませんわなぁ」
「カタログくらいなら、貰てもバチあたりまへんやろ」

…などと「嘘の関西弁」を心で唱えつつ、「興味本位」でいそいそと「会場」へと足を運んだのだった。


感想はといえば…
「驚愕吃驚不思議大好!!」で、
「なんちゅーカメラ作ったんじゃぁ!」というほど、衝撃的な出会いを体験してしまうこととなった。
何もかもが「新しかった」
同じなのは「フイルムを使って写真を撮る」ということくらいのものだ、と感じた。

時に1985年。「つくば未来博」の開催を間近に控えていた頃である。
「未来の形」というものを、その時私ははじめて「手にした」のである。


「科学大好き人間」でもあった私が「科学博」を横目で黙ってみているはずも無く、バイクを飛ばして会場へと向かった。
夏の日。熱い会場の中で、私の手には「α7000」が熱気にも耐え、作動し続けていた。

自分で「おいそれ」と買えるほど、資金があったわけではなく、叔父が買ったカメラを「またもや」借り受けてきたのである。
「これならば上手く撮れるよ、失敗無いよ」「だまくらかして」AE-1を売ったお金に追金してもらい入手したのである。
ホント、悪いヤツだね!。

結果は、といえば「本当に上手く撮れて」いたのにはびっくりした。
夜景も手持ちで撮り、会場内も撮ったのだが、ブレ無く、見られる範囲に収まったのは、間違いなく「カメラの性能」が良かったからである。


今でも「α7000」を見ると、突然欲しい気持ちになってしまい困ることがある。
「つくば万博」で感じた「未来」のビジョンは、あれから20年以上の時間が経っているのに未だに「未来」の形を保って残像のように自分の中に残り続けている。

「未来」とは「夢」だった時代が確かに存在していたのだ
「α7000」は、あのときの「ビジョン」を内包したまま、黒く凝固し、輝き続けているのだ。
(続く)


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2007年1月 7日 (日)

写真とカメラと人生と 7

時代は変遷して行く。
カメラの「AF」は必須の機能と化し、モータードライブとともに、撮影者の「負担」を軽減させるための「装備」として、メーカーは「新機種」を出して行くたびに、その性能を向上させて行った。

それだけに飽き足らず「バブル」を向かえたこの国にあって、メーカーもその「態度」を変化させ、
バーコードで撮影状況に対応できる」だの
カードを入れ替えて、機能を増やす」だの、といった「おまけ機能」をカメラにも内蔵させるようになった。

もちろん「基本性能」をないがしろにして作ったわけでは無かったようだが、当時のユーザーは困惑したものである。
「写真を撮る」という行為と、ほとんど「何の関係も無い」操作を撮影者に求められても、瞬間瞬間に対峙しながら撮影を行っている撮影者には、まさしく「無用の長物」であり、邪魔なだけだったから。

ユーザーの怒りと困惑を、メーカーは横目に見ながらもコンセプトの変更をせず、バブルに酔い続けるようにカメラ作りを続けていった。
しかし、そんな中に「一部のユーザーの思い」を叶えるかのように、地味では有るが、ツボを良くとらえた「カメラらしいカメラ」が登場してくる。
「EOS100」というカメラである。


「基本性能を大事にした」カメラは「手の中で転がるように」操作することが出来る。
指が各ボタン類の場所と「役割」を覚えている感じだ。
その時々に必要な操作を、個々の指が覚えていて、然るべき場所に向かって動いて行く、という感じといえばいいか。
本当の「自動化」というのは「マン:マシン」が密接でフレンドリーな関係を築けることで達成される。
今流に言えば「ユビキタス」と言いかえれば良いか。
全身「プラステイック」の「相棒」は、デビューの数年後に「パノラマ」機能を内蔵した姿で、私の元にやってきたのだ。


当時、私は「撮影する」という行為に行き詰まりを感じ始めていた。

いわゆる「フォトコン」というヤツが苦手で、他人に「評される」ことに、なんとも言えない「違和感」を感じていた。
撮影の「知識」は、もう相当量頭に詰め込まれていたので、実際の「撮影行為」だけが宙ぶらりんに浮いているような気がしていた。

「プロになる」という「ささやかな夢」は、たぶん写真好きの人間にとっては「良くある夢のひとつ」なんだろうけど、30代前半という年齢のこと、当時の私は「夢は夢さ」と、嘯くのが精一杯出来ることだった。

人間関係の悪化と、他のさまざまな要素が重なり、10年近く勤めていた会社を去ることになった。
「退職金」など有ろうはずも無く、「失業保険」で食うや食わずの生活を送る羽目になった。
生活は荒れ、心も荒んできた。
「夢」などというもの「姿」は、どこを見渡しても見えないような状態になってしまった。

「底が見え初めて」くると、気分は「やけくそ」に近いものになってくる。
私は「写真のストックが金にならんもんかいなぁ」と真剣に考え始めるようになってきた。

この頃には殆どが「スライド」フイルムでの撮影に切り替わっていて、その「出来」をうんぬん言わなければ「商品価値」というものは有った。
「素人でも写真を買ってくれるところは無いだろうか?」
と、懸命に探してみると、ある「ストックフォト」の会社に出会った。
要綱を送ってもらい、審査を通してもらったところ、幸いにして作品を送付することができるとの返事を頂いた。
「写真で金をもらう」という「夢」が、図らずも現実になった瞬間である。


しかし、まぁ現実というものは甘くは無いもんで、
「黒字が出る」というほど、作品が売れることは無かったけれど「この期間」ほど写真を撮りまくる「充実した時間」を過ごしたことは過去無かったに違いない。

「28~200ミリ」のレンズと「イオス100」それにいくつかの機材を小さなカメラバックに入れて、県内や近県各地を走り回った。

1193
「マン:マシン」の関係が自分とカメラとの間に構成される。
静かな興奮と、類稀な「集中力」を身体に感じながらの撮影は、
「レンズが眼になる」という言葉を、自然と想起させてくれる。
「これがプロという人種の「幸福」なのか…」
その瞬間、悟りを得たような「閃き」を私は感じた。


時が過ぎて、私は「ストック」を一時休止している。
作品を作るのに「たくさんの時間」が要るからで、暇が無くなってしまったのだ。

不平不満を言うことなく、その「静かな作動音」で確かな仕事を約束してくれた「頼りになる相棒」は、今でも現役である。

次回は「〆」として「コンパクトカメラ」。


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2007年1月 8日 (月)

写真とカメラと人生と 8

「人生と一番密接にかかわるカメラって、何?」
そう問われるならば、私は「コンパクトカメラ」と答えるでしょう。
「コンパクトカメラ」は、人生の「節目」に、また「苦しい時期」にも立ち現れて、その「風景」を記録していたカメラだったのです。

「一眼レフ」がおもに「作品を作る」カメラならば、コンパクトは「記録を撮る」カメラとして機能してきました。
それは「冠婚葬祭」であったり、旅先での「家族写真」だったりです。
冠婚葬祭であれ、旅行であれ、家族の「節目」としての意義を持つものですから、そこに立ち会う「カメラ」という存在は「思い出の作り手」として軽んじられる存在ではありません。

また「人生の苦しみ」を共有する「パートナー」として、その「軽量さ」というものが貴重であることもあります。
重い「一眼レフ」などのカメラを「苦しいとき」に「ひょい」と持ち上げるほどの「強さ」があるならば、苦難の道の解決も容易いのでしょうが、そういうときには「箸一本さえ」持ち上げるのが嫌になるくらい、事が面倒になるものです。

そんなときに「気持ちを楽にするために」有用なグッズが「コンパクトカメラ」なのです。
被写体へと集中し、シャッターを切るとき、ほんの瞬間、自分自身の「悩み」がフイルムへと転送され、その分気持ちが軽くなるような感じを覚えることがあります。
昔の人が「命を取られる!」といって、怖がっていた「撮影」という行為を、形は違えども現代の人間が「心を転写する」と思い感じながら撮影に興じるというのは、どこかに「同じような」ルーツを感じてなりません。


私も何台ものカメラを、時折の「相棒」として頼って参りました。
外国旅行に行ったとき「記録係」として私が持参したのは、ビデオカメラ1台と「ミノルタ」のコンパクトカメラでした。
快調に動き、きちんと結果を残してくれました。
ただ、旅行の最終日に「かなり酔っ払っていた」私の手から、ふっと力が抜けたと同時に「大理石の床」「ガッシャン!」といったきり動かなくなってしまった「相棒」には感謝と同時に「済まないなぁ」と思いました。
帰国後、修理に出したのは言うまでもありません。

Scan10129
「青春18きっぷ」を使って、東北に旅立ったときも、私の手には「コニカビックミニ」というカメラが納まっていました。
銀色に光る「金属カバー」のボディを持ったコイツは、小さいながら優れた描写力を発揮して、時にスライドフイルムを入れてメインカメラに、またモノクロを入れてサブに、と活躍してくれました。

旅に出るとき、わざと「コンパクトのみ」を持っていくこともありました。
描写力が優れているカメラが多くなったのも理由のひとつですが、
日ごろの「垢」を、背負って旅に行きたくない」気持ちになったから、というのが一番の理由です。
一眼レフには「労働」とかそういう「思惟」を感じさせるところがある、と感じたからです。


さて、つれづれ「カメラ」について書きましたが、私の「好み」のカメラというのがお分かりになりましたでしょうか?。

私は「大艦巨砲主義」というのが「苦手」なのです。
「F3にモータードライブ」とか「EOS-1に300ミリF2.8のレンズつき」とかいう装備が「辛く感じる」人なのです。

カメラ選びは「撮影目的」を抜きにして考えると「生き方」というものが強く反映されてくるものだと思います。
どちらかというと「淡白」である人間は、軽くて持ち運びのやすい「ライカタイプ」のようなカメラを欲する傾向があるようです。
私もその傾向があります。

今、一番ほしいのは「視力が落ちてきた」というのが主な理由ですが「ライカタイプ」のカメラがホント欲しいですね。
レンズは「28、50、85」くらいの焦点距離でそろえて、知らない町をスナップしたり、祭りを撮ってみたりしたいですね。
「もっと単純に、もっと軽く」という感じです。


次回からは「影響を受けてきたメディア」でいこうかな、と思います。
音楽、漫画、テレビなど、あまり「くくらない」でいこうかな、と思っています。


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