写真とカメラと人生と 1
最近は「カメラ」といえば即「デジタルカメラ」か「ビデオカメラ」を指すようになった。
両方とも「デジタル機器」で、電気無しにはまったく機能しないという代物である。
カメラが「家電量販店」で売られるようになるなんて、30年近く前には考えもつかなかった。
…いや、もっとも「家電量販店」なるものが「存在する」ようになるなんて考えられなかった時代のことだから、当然か。
「カメラはカメラ屋さんで買うもの」というのは 「野菜は八百屋さんで買うもの」と同じ位に当たり前のことだった。
だから、というわけではなかろうが、当時、新品のカメラをカメラ屋さんで受け取るときに「採れたての野菜」のような「みずみずしさ」を感じたものだった。
その冷たくて銀色に輝く、もしくは、漆黒のボディを手に取り「撫で回す」ように各部のパーツを作動させるとき…たとえば「巻き上げレバー(えっ、知らない人、居る?)」を、親指でひねるように回転させるとき、ゆっくりとひねり上げられたレバーがストップする間際の「カチン」という「小さなショック」を指先に感じた刹那、「エンドルフィン」が脳内から分泌され、撮影者は至福の快楽を…って、嗚呼、めちゃくちゃ長くなってしまった。
(ちょっと「田中チョートク先生」気取っちゃいました(^_^;))
このように(何が「このように」かは追求しないように!)
「昔のカメラ」とその「環境」には
撮影者の「フェチ嗜好」というか「自己満足」を充足させる「なにか」があったことは確か。
そして「撮影」というのは「儀式」のようなものに近くて、
「フイルムをカメラに入れたその時、カメラは「写真機」へと変貌して行く」のだ、と誰かがのたまわった通り(誰?)写真を「写す」という「行為」は「日常生活とはかけ離れた、一種の「特別な瞬間」として「撮影対象」にも、また「撮影者本人」にも密かな「緊張感」を感じさせるものだったのだ。
それが証拠に「昔の写真」と「今の写真」を見比べていただけると良くわかるのだけれど、「昔の写真」に写っている人はみな、一応に「緊張感」を感じさせる…なんとなく「不自然な笑顔」で笑っているようには見えないか?。
なぜならば「カメラの前に立ち、写真を撮られる」という「プロセス」は、今の環境とはまったく違うところから発しており、

1、「高価なフイルムを買い」
2、「これまた高価なカメラを持ってきて」
3、「またまた高い現像料が必要な」
4、「失敗するかもしれない一枚のために」
5、「必死でピントを合わせて」
6、「失敗したら「ヘタクソ!」となじられるかもしれない」
7、「生涯の「記念日」の、二度と来ないこの瞬間を!」
8、「確実に写さなきゃ、日ごろたたいた「大口」が」
9、「ふさがっちゃうのは…ひょっとしてアリ?」
という「万感の念」を抱きながら(笑)撮影者はその「一枚」に挑み、被写体たる人々は、その「孤独な戦い」を固唾を飲んで見守っているのだぁ(ジャーン!!)。
…ってなんだか「ゴジラのテーマ」が聞こえそうになってきたな?。
長すぎも何なので、今日はこの辺で!。
(続く)
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