5、影響を受けたメディアは

2007年1月 9日 (火)

たかが漫画、されど漫画(小山田いく編)1

「自分の生き方に影響を与えてきた」映画や、小説など、
人それぞれに「心の杖」とでもいうべき「メディア」があると思う。

先人たちの「指南書」としての役割を「メディア」というものは持っている。
それが作者にとって「意図的なもの」で無かったとしても、それは今の世にも連綿として流れ、絶える事は無い。


「小山田いく」という漫画家をご存知だろうか?。
1980年「週刊少年チャンピオン」という漫画少年誌で発表された
「12月の唯」という作品で、当時の中学生、ミドルティーン達の支持を受けた「漫画作家」である。

彼の略歴については
『ウィキペディア 小山田いく』
を参照していただきたいが、その、
「静かでいて、熱意ある」想いを「小山田作品」に抱いた人の多くが、社会的に重要な立場にある現在においてでも、作品から伝わる「暖かな思い」を大事にしながら生活されていることを知るとき、彼の作品と、その「ヒューマニズム」を私も「再確認」するのである。


「12月の唯」が発表されたとき、私は「高校一年生」だった。

希望を胸に入った高校ではあったが「夢と現実」のギャップというものに気づかされるようになるのに、さしたる時間は要らなかった。

クラスにはどこか「マンネリ化」したような、澱んだ空気が流れているようだった。
「覇気」というものが感じられない教室の中にあって、私は中学時代のことを懐かしく思っていた。

それゆえに「中学時代」を舞台とする「メディア」には本能的に飛びつき、夢中になった。
「夢と現実の混濁」が始まっていたのだが、それ以外に「特効薬」たるものは無かった。
運動が得意なわけではなく、友人が多かったわけでもない。
高校生活を「エンジョイ」するにたる「ツール」を私は持ち合わせていなかったのである。

仔細は忘れてしまったが、ある時私が求めた「一冊の週刊漫画誌」というのが「チャンピオン」で、その中に「新人漫画賞」の受賞作として紹介されていたのが「12月の唯」だった。

一目見たときから何か「予感めいた」ものを感じた。
作中の世界は、どっちかといえば「ありえないだろう」中学生の生活だった。
それでも妙な「シンパシー」を感じてしまう自分に、戸惑いつつも作品に引き込まれるのを、到底否定することは出来なかった。

何度も、何度も読み返した。
胸の鼓動は高鳴って飽きることなく、毎日繰り返し、繰り返しの「蜜月」が続いた。
高校に入ってからずっと感じていた「空白」を埋める「何か」に出会ってしまった瞬間だった。
(続く)


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2007年1月10日 (水)

たかが漫画、されど漫画(小山田いく編)2

「12月の唯」で少年誌デビュー後
「春雨みら~じゅ」「三角定規ぷらす1」といった「読みきり作品」を発表。
読者の評を得てか「すくらっぷ・ブック」という「学園コミック」の連載を開始。
前三部作の「ストーリー」を継ぐ格好になっていて、当然「キャラ」も同一である。

「すくらっぷ」「主人公」「柏木晴」という名の「二頭身キャラ」だ。

「二頭身」というととかく「赤塚不二夫作品」にありがちな「跳ね回り、かき回す」キャラの使い方が一般的だが、小山田作品、とくに「すくらっぷ」に置いては「重要な役割」を任されている。

「主人公」の「柏木晴」は、毎回の「ストーリー」に「深く関与」していることが多い。
「7組」のクラスで巻き起こる恋愛、友情、いたずらなどの「出来事」に巻き込まれることが多く、そればかりか「自分から首を突っ込んで」事の「解決」を試みようと粉身する姿は、健気であり、感動的ですらある。


第二話「あいこでショ!!」の回で、級友の仕掛けた「いたずら」によって「跳ね飛ばされた」晴は、同級生の女の子を「怪我させない為に」彼女を避けて、二階の校舎の窓ガラスを突き破って(!!)落下する羽目になる。
…本当にあるのならば「社会問題」だがそこはマンガ。
保健の先生は「こんなことくらいでくたばるヤツじゃない」としゃあしゃあと言い放っている。

当の彼女は「晴」に「前からの好意」を持っていて、晴の「親友」の「イチノ」が「算出して」結論付けた、
「晴も彼女のことが好き」という結果に喜び勇んで、晴の「ファーストキス(おそらく)」を奪ってしまう!。

事の次第を聞いた晴は「相手が麻紀ちゃんじゃなくても避けたよ」とイチノに話す。
それをイチノから釈明された彼女は傷つくのだが、それを「良しとしない」晴は、自分から彼女にキスして

「麻紀ちゃんから一回、僕から一回でアイコだよ」という
「強引な屁理屈」とでも言えそうな論理で、解決を図ろうとする。


…というふうに「なんのこっちゃ?」と思われるかもしれないが、要は、
「愚直なまでの一生懸命さ」を通そうと「粉骨砕身」する姿が感動的なのであり、素敵だったのである。
「柏木晴」こと「晴ボン」は、まごう事無き「7組のヒーロー」であり、私自身の「ヒーロー」だったのだ。

彼は「愚直に」自分の中の「正義」を貫こうとする。

もっと「簡単」に、もっと「さりげなく」生きていくことは、それが「中学生」であったとしても「本能的に選択」出来る生き方だろう。
「いじめ」に対して「怒り」を向けなくても、「差別」に対して「見てみぬ振りをしても」とりあえず「時間は過ぎて行く」ものだからだ。


「晴ボン」はそれを「許さなかった」。

「誰もが幸せに生きていくべきなんだ」ということを「小さい体」を張って叫び続けていたのだ。
「中学生活三年間」を「妥協することなく」生きようとする生き様を
「たかが漫画じゃん!」と「読み飛ばすように」接することは、僕にはどうしても出来なかった。

「現実と架空の混濁」が始まっていたのかもしれない。
しかし、それでも「後悔も不満も」今の自分に感じることは「ひとかけらも」無い。
「自分に恥じるな!」と「晴ボン」は、「二次元の向こう側」から叫び続けていたのである。
(続く)


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2007年1月11日 (木)

たかが漫画、されど漫画(小山田いく編)3

高校生活は、あいかわらず暗鬱であり気だるかった。

それでも個々の「個性化」は進んで行ったようで、スポーツ、音楽、バイク、バイトなど、自分の「青春」をかけるべく動く同級生たちの姿がクラスの中には見られた。

しかしその中でも私自身は「暗鬱」だった。
これといった「対象」を持ち合わせなかったことに加え、入学したときから感じ続けている「違和感」からの脱却が出来ていなかったのである。

「すくらっぷ」に出会ってからの「現実感の喪失」のようなものは、高校での「生活感」を削いでしまう結果にもなった。
もちろん「すくらっぷ・ブック」にであったことが不幸なのではない。
「現実直視」が出来なかった私自身の弱さと、当時の「精神状態の不安定さ」がなせる業だったのである。


私の中学時代のことをかいつまんで話しておきたい。

小学生の時分…いや「生まれつき」かな…「他人とは違う行動」の目立つ子供だった私は、同じクラスの子供たちにとっては「格好の標的」だったらしく、よくいじめをうけた。

それは中学に入学してからも続き、収まることが無かった。
靴が紛失したり、水をかけられたりもした。
私は「へそ曲がり」のくせに「泣き虫」だったので、いじめている本人にとっては「サディスティックな」要求に良く応えてくれる存在だったに違いない。


しかしあるとき。
まるで嵐の海が「凪」になったかのように、ピタリといじめが止んだ。

今だもって理由はわからないが、クラスの雰囲気が確実に変化したのだ。
程有って何人かの同級生が「友達づきあい」してくれるようにもなった。

それからが大変だった。
今まで「溜まっていた」感情を爆発させるかのように、私は「いたずら」をやらかす「プチ問題児」に変身してしまったのだ。
「悪ガキ4人衆」は「悪の頭脳」たる私が考えた「いたずら」に夢中になった。
事の仔細は…言いたいけど言えないので省略するが、いたずらに夢中になった結果「掃除罰」を命じられて、廊下の吹き掃除をやったこともあった。

中学もちょうど中間くらい、
つまり「すくらっぷ・ブック」のストーリーが始まった頃の「時期」と合致する。
晴ボンやイチノたちが「紙面に登場した」ときの「時期」と同じ、ということとなる。

三年生になり「受験」という「人生最初の壁」が訪れたときも、我がクラスは「級友全員の力」で難関を突破しよう、と意気込んで望んだ。
問題を出し合ったり、アドバイスを受けたりもした。
「志望校に合格するぞ!」というのが全員の「心の花」だったのだ。

そして春。
緊張した受験を終えて、それぞれの中に、それぞれの「花」を咲かせて、我々は中学時代に「サヨナラ」を告げた。
その向こう側には「新しい出会い」が「約束」されているものと信じて、校門をでていったのである。


だが私の場合、待っていたのは「失意」という名の教室だった。

もちろん「一人勝手」な感情からのことで、クラスメートや担任の先生などが悪かったのでは決して無い
私自身が「夢と現実とのギャップ」に失望してしまっただけなのである。

私は「ビフロストの橋」を渡ってアスガルドに行く事は出来なかった。
「虹を超えて」行くことが出来なかったのだ。

私は「イカロス」のようなものだったのかもしれない。


まるで「夢のように」そこに立ち現れてきたのが「晴ボン」たち「7組の仲間」だったのだ。
催眠術にかかった被験者のように、私は「彼らの世界」に魅了されてしまった。
「現実と夢との混濁」はこうして始まって行ったのである。
(続く)


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たかが漫画、されど漫画(小山田いく編)4

「現実と夢との混濁」を意識しないままに、高校の三年間は「矢のように」過ぎて行ってしまおうとしていた。
三年生となれば「進路」というものを決定しなければならない。
大まかに言って「進学」するか「就職」するかという選択を、少なくとも「どちらかは」選ばなければいけなくなる。

私はハッキリ言って「お勉強」が大嫌いな人だった。
特別「IQ」が他人よりも劣っていたというわけじゃないが「お仕着せにさせられる」ことに「辟易して」いた私は、
「そんだったら就職しちゃおー」という「軽いノリ」で、工場への就職を志願した。

「バイク編」でも書いたが、何はともかくも「バイク」が欲しかった。
自分が「自由になれる」空間が欲しかったのだ。

そして「すくらっぷ」も終わりへと近づいていた。

「丸三年」の「ギャップ」があるのだから「卒業」も彼らと同時だった。
私は彼等の「故郷」でもあり「舞台」でもあった「小諸市」へのツーリングを画策し始めた。
「まずは「すくらっぷありき」」なのである。


ここまで読んで「阿保ちゃうか?」と思われる方もいるかもしれないが、当時の私には「大真面目」なことだったのだ。

将来のことなど正直言えば「どうでもいいこと」でしかなかった。
「一番重要なこと」というのは「確かめたい!」という「一途な想い」一本でしかなかった。
それくらいに「純粋」であり、「愚か」でもあったのだ。

中学の「卒業式」の日は「晴天」だった。
夕暮れの朱色(あかいろ)が、校舎を染めていて印象的だった。

対して高校の卒業は、薄暗く感じるような天気だった。
「あばよ」も言わずに散り散りと別れていく、級友たちの背中が悲しかった。
手許に握っていたはずの「証書入れ」の、そのなんという「軽さ」か!。

私の中には「不安」という一文字が根ざしていた。
しかしそれも「大事の前の小事」だったのだろうか?。
就職前に私は「原付免許」を取得し、資金を前借して「精一杯大きな原付バイク」を購入した。
「計画」は動き出したのである。
(続く)


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たかが漫画、されど漫画(小山田いく編)5

霧が海のように広がっていた「軽井沢」の街。
バイクを止めると「シーン」という音が耳底で鳴るばかり。
時折牛乳配達のバイクの音が響き、それもまた海の底に沈むように聞こえなくなって行く。

「視界数メートル」の中を「意を決して」走り始めると、合羽を着ていても「全身ずぶぬれ」になった。
未だ「五月初め」の高原の気温だ。
「走れば乾く」なんてまったく期待できない。

しかしそれを「気にする」ことは無かった。
「操縦がまだ不慣れ」であるに加え、
「はやる気持ち」は、ごうごうと「18の胸」でたぎり続けていたのである。


群馬の実家を出てから三時間。
軽井沢を抜け、国道の「高さのピーク」を何とか越えていくと、道はひたすら下っていくばかりになる。
バタバタと音を立てる「合羽」を着たまんま、猛烈なスピード(自分では…)で道を下っていく。
そのうちに「土が露出している崖」のような場所が散見できるようになってきた。

「小諸市」は、浅間山の麓に作られた街で、当然の事ながら「噴火」による「火山灰土」が堆積して形成されてきた場所が多い。
こういう「崖」もそのひとつである。

程なく「道標」に「小諸市」の文字を見る。
ヘルメットの中「着いたぞー!」と叫び…たかったが呟く程度に留めた。


市内を抜け、見覚えのある「駅前」を通り、「懐古園」へと向かう。
日は昇り、朝の生活の雰囲気が感じられてきていた。
人気の無い「園内」に入っていく。

「懐古園」は「城址公園」だ。
古い「石垣」をめぐりながら、千曲川へと「傾斜」している道を進んで行く。


…兄妹ふたりきりで経営する「喫茶店」を手伝い続けてきた「晴」のクラスメート。
彼女達の元に「兄貴の高校時代の後輩」が現れた。

「彼女」はやがて「喫茶店」を手伝い始めるようになる。
彼女を「慕い始め」ている兄と、彼女を見ながら、
「自分の居場所」を「喪失」してしまうように感じ始めた晴のクラスメートは「懐古園」の「展望台」へと向かう。
「たけし、ばかものー!!」とそこで彼女は「想い」のたけを叫ぶ。
…そして級友たちは「ああこう」と「おせっかい」をしながら彼女を励まし、支えて行く。

…というようなストーリーがある
(第40話 風花の円舞曲(ロンド))

その「展望台」へと足が急いだ。
そこが一番「すくらっぷ」を感じることが出来る「舞台」と感じたからだ。


「展望台」へ上がってみると、そこには「見慣れた景色」が横たわっていた。
千曲川の流れも、山の稜線も、まったく「同じ」風景が広がっていた。

「現実と夢」がひとつになり、初めて「交差した」瞬間だった。
言葉にならない想いの中、私はずっとそこに立ち尽くしていたのだった。
(続く)


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2007年1月13日 (土)

たかが漫画、されど漫画(小山田いく編)6

「夢との邂逅」を果たした私は満足だった。
だが、程無くして「病魔」が私の身体を襲った。
なかなかに完治しづらい「難病」というヤツである。

せっかく就職した会社ではあったが「めぐり合わせ」というヤツが悪いのだろうか?。
「仕事」の内容は「募集要項」とは遠いところにある「現場での加工作業」というやつだった。
病気で「消耗」し、体力、気力ともに「削がれている」ところに、「希望違いの仕事」である。
「仕事は見て覚えろ」という「職人気質」の現場も馴染めなかった。
「トリプルパンチ」の上に「三度目の休職」が響いて、結局会社を辞することになった。


「すくらっぷ・ブック」最終話の
「ここからは君自身の手で!」の明るいメッセージが「虚ろ」に感じられた。

「すくらっぷ」の好評を得て、次回作「ぶるうぴーたー」という「高校の寮生活物語」がスタートしたが、そこにはもう自分自身が「追いつづけてきた」夢の形は描かれていなかった。

仕事にも就けずに暮らす生活は、暗鬱を重ねて行った。
私は前よりもなお「夢」を追い求めて走るようになっていた。


確か2、3度目かの「小諸訪問」であったろうか?。
「展望台」に上った私の目に飛び込んできたのは「雨避けの傘」に書かれていた
「無数のすくらっぷファンのメッセージ」だった。

私は心底驚いた。
そして本当に「感動」していた。

「こんな想いを抱えながら生きているのは自分くらいなもの」
だと自分で自分を「卑下」し、「生きることに」疲れ始めていた頃だったから、その「数々のメッセージ」が
「自分への励まし」のように思えてならなかったのである。
「生きることの否定」をしないでも済んだのは、この「名前も知らない」たくさんの「すくらっぷファン」のおかげだったかもしれない。


…時は流れて

「恋愛」に苦しんだり、家族の別れなどが有ったり、と辛い事も有ったが、
「病気」もひとまずは終息し「精神的な安定」は深まって行った。

その間「なんとなく気恥ずかしくて」反故にしてきた「すくらっぷ」の世界を、
「もう一度今の眼で検証しよう!」と「単行本」を買ってきて読み始めたのが、最近のことである。

「週刊」で連載されてきたときは「毎回買う」ことなど到底無理で(ビンボー)、また「立ち読み」しようにも本屋さんが少なかった当時のこと(コンビニなんて知らないよー)、ストーリーに「欠落」がいっぱいあったのだが、
「このままもなんだしなぁ」と「過去への総括」を図る意味でも「読んどこうかなぁ」という気になったんである。

ついには図にのってしまって「復刊本」の世界に手を出して「1万円以上」の買い物をして(しかもコミックでだよ!)しまうのだから…いったい何なんだか…。

「夢と現実」は、もう交じり合ってはいないけど
「現実に夢を見る」ことは、今でも「楽しんで」いる。
長い長い「中学時代」を、ようやく「卒業」できたんだ!。

次回は総括
「「いく」と「小諸」と「青春」と」


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2007年1月14日 (日)

たかが漫画、されど漫画(小山田いく編)7

「復刊ドットコム」から発売されている
「すくらっぷ・ブック」全4集の巻末には
「どっぐいやあ」という「スクラップ作成までの道のり」を、小山田先生自らが振り返りながら漫画に仕立てた作品が載っている。

漫画を書き始めた頃から「すくらっぷ」が誕生し、世に出てくるまでの「エピソード」について書かれたものだが、ファンにとっては「感動」ものであると同時に
「自分とすくらっぷとの出会い」を感慨深く見つめなおすことが出来る、という意味でも貴重な作品の一つである、と言えよう。

「三年違いの中学生活」を夢想して生きてきたところもある私だが、この「どっぐいやあ」を見ると新たに、
「先生の青春時代」を中心に「衛星軌道に遷移してきた」私自身の影も、同時に見えてくるから不思議だ。


「長野県小諸市」は、私が生まれた群馬県と良く似た環境を持っていると思う。
「風土」に共通項が多いというわけではない。
「地方の中の都市」という点で「環境」が似通っていて、人々の「生活」も似ている、というような意味合いである。

だから「中学時代」の、その「生活模様」も似通っていて「そうなんだよなぁ」と共感するエピソードも多く作中には見られた。
先生の「青春記」には、私の「青春」とダブる要素がいくらも含まれていたようで、
その「内包された情感」に、私は「ほとほと酔ってしまった」のだ、とようやく最近気付くに至ったのである。


「小諸」は自然あふれる「素晴らしい景観」をまとった街である。
去年、錦秋の頃にここを訪ねたが、千曲川を彩る紅葉の色の鮮やかさといい、遠くに「薄煙」をまといながら聳える「浅間山」の流麗さといい、
「この街で暮らせるものならば!」と、そのとき心底思ったくらいだ。

先生の作品は「自然」と密接なテーマを持った作品が多い。
「自然を身近に感じられる」この街で生まれ育ったのなら、それも「むべなるべし」と言うべきか。

街を離れず、小諸から出ることなく作品を作りつづけてきた「先生」。
それはこの街での自らの「青春記」たる「すくらっぷ」でのデビュー以来、氏が自らに繰り返して問い続けてきた「歴史」としての結果であり、その「宣言」のようなものかもしれない。


「小諸」という土地の中で育まれた「青春達」が、やがて「作品」へと転化し、私やファンの人たちの心に「共感の鐘」を鳴らしてくれる。

浅間の風が鳴らす「カリヨン」の響きを…
(終わり)


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2007年1月15日 (月)

寅さんと一緒

私はほとんど映画を見ない人である。

映画館ではもちろんのこと、ビデオを借りたり、テレビのロードショウもあまり見ない。
「何で見ないかなー」と考えるときもあるが、結論は
「なんか、めんどくせー」になってしまう。

「映画のストーリーにお付き合いするのがイヤ」
というのが、ひねくり出した答えなのだが、つまり映画の中の登場人物たちに「シンクロする」ことが苦手なのである。
「感情移入」しにくいタイプなのかもしれない。
「親しい出来事」がストーリーの核になっていたなら、多分楽しめるんだろうけど。


「寅さん」渥美清さんの訃報を聞いたのは旅の空の下でだった。

満ち足りた気分で、私は家路へと向かっていた。
撮影は順調であり、天気も終日良かった。
夏空に夕焼けがきれいだった。

しかし、カーラジオから流れるニュースの内容が「血の気を引かせるように」私の「浮遊感」を奪ってしまう。
渥美清「寅さん」が死んでしまった、というのだ。

「旅に生き、旅に死す」という言葉が、日本で一番似合う男だった「寅さん」。
「優しさと不器用」で、自分の幸せを見送り続けてきた「寅さん」。
「寅さん」はその「バッグ」の中に、自分の「人生」を入れっぱなしにして旅を続けていた。

ハンドルを握りながら、暫く感慨にふける。
「優しさが…逝っちゃったなぁ」という言葉が唐突に浮かぶ。
「昭和」という時代が、遠ざかって行くのを深く感じていた。


それ以来だろうか。
「寅さん」は「正月にみんなで見に行く初詣映画」から
「不器用に自分にまっすぐに「生きたい」男の人生録」へと、私の中で変わって行った。
「男って…みっともなく生きていくもんだなぁ」と思いつつ、その「男気」に心打たれたのである。

「虎は死しても皮を残す」というが、なるほど「寅」は死んでも「映像」という名の皮を残した。
「渥美清」という人は「車寅次郎」という名の「皮」を置いて行ってくれたのだ。
これぞ「役者」と言えはしまいか!?。

「映画」というと、私は真っ先に「男はつらいよ」を思い出すのである。


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2007年1月17日 (水)

遠くへ行きたい!

「感受性が高い」子供というのは、時折大人が吃驚するような仕草や行動をとるもので、大人達はそんな子供の姿に胸を打たれてしまうことがある。
まだ幼かった小学5年生程の頃、私は「悲しいメロディ」というのを、何故か愛して止まない子供だった。

永六輔作詞、中村八大作曲の「遠くへ行きたい」は、言わずと知れた名曲である。
胸の中を「甘く掻き毟る」ようなメロディと、端的でありながら情感を強く想起させる詩を、私は意味もわからないままに、頬に涙して聞いていたのだ。


「遠くへ行きたい」には、不思議な顛末がある。

中学生になり教科書以外の「歌」に目覚め始めた頃、当時流行していたのが「雨やどり」という「コミカル・ソング」だった。
作詞作曲、歌、と三役をこなしていたのは「さだまさし」
「グレープ」という男性デュオを解散し、ソロシンガーとして再デビューした頃のことである。
この「可笑しな曲」に私は何故か惹かれるものを感じた。

「笑わせるだけ笑わせて、ほろりと落とす」さだ得意の曲構成は見事だが、当時「恋愛の意味なんぞ知らない」私が本能的に「惹かれた」のは、その「何処かに漂う哀感」のゆえだったのかもしれない。


「隠れさだファン」として「成長を続けた」私が、後になって「噺歌集(はなしかしゅう)」という彼の「コンサート語録」を手にしたとき、彼が「永六輔」を敬愛し、「遠くへ行きたい」を「自分のベストソング」である、と話している章を見つけた。
「さだ」の作品には「遠くへ行きたい」が影を落としていた。

「芸術」とは、営々と連なる「人の影」を負うものなのだろうか。
ひとつの「芸」が負ってきた「影」を、また違う人が違う形で「背負い」ながら、再び違う人の「想い」という「影」を負って歩く。
「名曲」は「受け継がれながら生まれる」のである。


さだは当時「遠くへ行きたい」以上の曲を作ることは不可能である、と語った。
そのとき彼は未だ20代半ば。
自身の「可能性」を達観するには早すぎた年齢である。

「遠くへ行きたい」以上の曲を彼が作ることが出来るかはわからないが、彼が世の人々に「必要とされてきた」曲を作り、歌い続けてきた功績は「遠くへ行きたい」を愛して止まない人たちの数と比較することは愚かであれど「光り輝く歴史」として日本の歌謡史に残ることには何等違いが無い。


久しぶりにテレビで「ジェリー藤尾」さんが歌う「遠くへ行きたい」を聞いた。
歌は「人生経験」という「フィルター」を通りぬけるとき、過去とは違う「解釈」というものを聞く人に与えてくれる。

「遠くへ行きたい」は「旅への願望」というテーマをとりながらも、その奥底に「人生」という「大きなテーマ」を内包させていると思う。

「知らない街を歩いてみたい」「どこか遠くへ行きたい」
…こんな風に聞こえないだろうか?

「今と違う人生を歩いてみたい」「もっと違う人生を探しに行きたい」
そして…

「愛する人とめぐりあいたい」という部分を見ても
「なぜ、わざわざの旅に出てまで、愛する人を探しに行くのか?」という疑問符が浮かぶが、それも「他の人生の希求の中で」めぐりあいたい、と解釈すれば、すんなり納得できないだろうか?。


「人生とは旅である」という言葉はもう陳腐なほどに語られ、使われてしまっていて新鮮味が無いが、
このように「あぶりだし」に言葉に含めて言えば、それは知らず知らずのうちに聞き手に届くし、深く浸透するものではないだろうか。

「小五の子供にも伝わるくらいに」


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2007年1月18日 (木)

「さだ」という名の作品達

あるときは「軟弱」と呼ばれ、またあるときは「右翼」と呼ばれる。
「「優しさ世代」の旗手」と呼ばれ始めてから「女性蔑視の男」と蔑まれる。
…「芸能人」の定めとは言え、こんなに評価が「くるくる変わる」人間というのも珍しい。
本当の「さだまさし」とは、一体何なのだろうか?。

「雨やどり」が大ヒットし、時の女性ファンをその「歌声」と「容姿(?)」でとりこにした「伊達男」が、再び衆目の元に晒される日が来たのは「関白宣言」の大ヒットからだった。

「天までとどけ」のヒットなど、独自の路線を歩んできた彼は、あるときに「爆弾のような」歌を作ってしまう。
「社会に批判と争論の渦を巻き起こしながら」さながら「発達中の台風」のごとく、その歌は日本中に広がって行った。
アメリカのタブロイド紙にまで記事が載り「社会現象」とまでなった「関白宣言」は、さだのこれまでの評価を「激変させる」ことになった。

次いで発表された「防人の詩」を「右傾的である」と評する人もあり、さだへの「評価」は、これまでの「優しいさださん」から「実はおっかないかも」のさだまさしへと変わって行った。


「雨やどり」からのファンであった私も「関白」には面食らった一人だった。

しかしメロディそのものに「温かみ」があり「コミカルな」詩とあいまって、「雨やどり」と同じく「聞き手」の心をマッサージするような作品に仕上がっていたことが「関白」の大ヒットを生んだ要因の一つであることを忘れてはいけない。

彼が後に話した
「…これは「こうあれば」という男の「我侭」を歌ったものである」という言葉を引用してもわかる通り、
彼自身が語りたかったのは「男という人種の哀しさ」であり「女性蔑視」を殊更に歌いあげたわけでは無い。

1番2番で「ああせいよ、こうせいよ」と「好き勝手」な言いぐさが歌われているのに比べ、最後の3番の「情けなさ」は何だろうか?と思うくらい「しんみり」と胸に響く。

「「お前のおかげで良い人生だった」と俺が言うから…必ず言うから」の一節には
艱難辛苦を乗り越えて家族を養い、絆を保ち続けて行こうという、妻への「宣誓」の意思が確かに刻み込まれている。


今、ゆっくり聞いてみるとこれはやはり「名曲」だ。
「五分間のドラマ」を作らせたとき、それを「音楽で」可能に出来る人間はそうは多くは無い。
「さだまさし」は「人間ドラマの名プロデューサー」なのである。


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2007年1月19日 (金)

「さだ」という名の作品達2

「一番好きな作品を選べ」と言われると難渋するくらい、さだの作品は多岐なカテゴリーを有しており、また、その完成度が高い。
彼の作品はいわゆる「叩き台」を元にして作られている事が多いのだが、

自身の「経験」からのもの
(「案山子」など「肉親愛」「郷土愛」をテーマにしているもの)
歴史からヒントを得ているもの
(「飛梅」「防人の詩」など)
小説からヒントを得たもの
(「無縁坂」など)
等々、まさしく「書ききれないくらい」多岐にわたっている。

日常の「何気ない風景」を「詳細に分析して再構築させる」才能、
史実を想像し、現代の「生活模様」に反映させる手法、
映像を「言語化」し、その広がりを深めながら訴えかける「手腕」
どれをとっても「唯一無二」である。

彼の仕事を「借り物」と評する人もいるが、そもそもが「歌」というものは「詠う」と近似な言葉で、
「ものごとを表すること」と言えなくも無い。
「俳句」「短歌」と極めて近いところに存在するものだろう。
彼は「詠う」ことの天才である。


彼が歌う「風景」も、その「スケール」において幅広いものがある。

海を見下ろす丘の上は何時でも向い風が吹いて
空と海の青と思い出とが一列に並ぶ
」(黄昏迄より)
…という「大きな風景」から

ひとつふたつみっつ 流れ星が落ちる
そのたびきみは 胸の前で手を組む
よっついつつむっつ 流れ星が消える
きみの願いは さっきからひとつ
」(線香花火より)
…といった「目の前の風景」まで、
まさしく「宇宙からマッチ箱の中」までなのである。


いわゆる「独自の世界観」を持ち、それを作品作りに頑なに持ちこんでいる人がいる。
そのような人たちは「カリスマ性」を帯びやすく、また、それが
「社会現象の一端」としてマスコミ等の話題にも乗りやすいため人々の「注目の対象」にもなりやすい。

「さだ」は「日常風景から大きく逸脱しない」世界を対象として作品を作っている。
つまり「誰にでもありえるような風景」を歌っているので「カリスマ性」というものには無縁のように見える。

たが誰もが「英雄」を求めているわけではない。
私自身も「英雄」なんて言葉を聞くと「即座に引く」人間なので、「強いカリスマ」というものにはアレルギーがあって好きになることが出来ない。
それよりも「美しい日常」が好きだし、「美しい言葉や心」が好きなのである。

さだの歌の中には「美しい国」が確かに存在している。
わざわざ時の総理大臣が「美しい国宣言」なんぞしなくたって、「さだ」の歌を聞いていれば、私的には十分この国と人が「美しい」と確認できる。

「夢一匁」
作詩・作曲 : さだまさし

閑かな日だまりに並んだ ささやかな鉢植えの様に
老人たちは おだやかに吹いて来る 風を聴いてる

遠い昔のことの方が ずっと確かに憶えている
遠ざかる風景は何故か 初めて自分に優しい

生まれた時に母が 掌に与えてくれた
小さな宇宙だけがいつも 私の支えだった

こうして今すべてを越えて
しぼんだ掌に残ったのは
父の文字で おまえの命と書かれた
夢一匁


生まれ来た生命よ すこやかに羽ばたけ
悲しみの数だけをけして かぞえてはいけない

父と母が伝えた愛に 抱きしめられた子供たちよ
みつめてごらん その手に小さく光る
夢一匁

*文中の歌詞は「さだまさし全曲歌詞集 http://www.cai-insect.jp/sada/」より抜粋したものです。


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2007年1月20日 (土)

「さだ」という名の作品達3

彼の作品の「広がり」は、そのまま彼という人間の「広がり」でもある。

コミカルな「雨やどり」「関白宣言」などの系列と、
シリアスな「償い」(裁判で使用されて話題になりましたね!)、
楽しい歌「パンプキンパイとシナモンティー」と
哀しい歌「掌」「みるくは風になった」などの間に、
幾多の「メッセージ」があり、出来事が存在している。

特に「男女の恋愛模様」に関して、彼が作る作品は輝きを増す。
「哀しい恋の歌」が多いのが特徴で、それはいかにも「寂び」好みの日本人らしいと言えなくも無いが、
それはそのまま、彼の見た「心象の形」と言っても構わないだろう。


川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ
(「檸檬」より)

男女の「別れ」を歌った「檸檬」という曲だが、
「恋愛」という名の「果実」を頬張った後に残る「虚しさ」と、その「当所の無さ」を良く風景として書き表している「名作」だと思う。

他にも

例えば君は待つと
黒髪に霜のふる迄
待てると云ったがそれは
まるで宛名の無い手紙
(「まほろば」より)

というように「男女の恋の儚さ」を歌わせるとき、彼は現代の「万葉人」となる。
その「切なさ」は、等しく誰もが心の奥底に隠し持っている「鍵を失(な)くした小箱」のようなものである。
彼はその「中身」を優しく詠いあげる。


山口百恵に提供し、自らも歌っている「秋桜(こすもす)」という歌がある。
当初、さだが作った歌だと気付かぬままに聞いていた私だったが、その旋律の美しさと「小春日和」という「聞き慣れなかった」言葉に(なにせ中学生だから「小春日和」の実感自体が薄い)興味を引かれた覚えがある。

他にもヒットする、しないの如何に関わらず、彼が作って他の歌手に提供した歌は以外に数多い。
私が知っているだけでも

「掌(てのひら)」森山良子
「不良少女白書」榊原まさとし(ダ・カーポ)
「夢」岩崎宏美
「短編小説」桂木文(「ムー一族」というドラマの中で歌われていました)
…多分、まだまだあります。

彼独特の「トーン」からいって、自分に合わせて作曲すると「とんでもないことに」なるんじゃないか?という気がしますが、どっこいそうはならないのが彼の「音楽基礎知識」の豊富さゆえなのでしょうか。
ちゃっかり、自分でも歌って印税稼いで(?)ます。
そういうところに彼の「したたかさ」の一面も見られるかもしれませんね?。

かと思えば「長江」という「ドキュメンタリームービー」を製作して「大赤字」を出してしまう、というところもあって…なんというか「底が知れない人」だ、といつも思います。

*文中の歌詞は「さだまさし全曲歌詞集 http://www.cai-insect.jp/sada/」より抜粋したものです。


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2007年1月21日 (日)

「さだ」という名の作品達4

さだの作品はともすれば「詩」ばかりがクローアップされてマスコミなどに取り扱われることが多い。
「関白宣言」の騒動に着目すればお分かりの通り、その「曲」穏やかさに比べて、「詩」自体が一見過激であったがゆえ、彼の「思わんとする」場所とはぜんぜん違う方向で「評価」されてしまうという結果になったりする。

「防人の詩」をもって「右翼思想者」と彼を「断罪」する輩まで出てきたのは「世の思想性の単一化」もさることながら、彼のその「独特で強力な」作詞能力の弊害だったかもしれない。


彼が書く「曲」、それも「エレジィ」は、聞く人間の心を「浄化」させるような「澄んだ冷たい清水」のように清らかである。
その「美しさ」は、ともすればすらり、と流れがちになってしまうが、必ず「腰を下ろして」きちんと味わってみることを強くお勧めしたい。

「精霊流し」などのエレジィをオーケストラ・ベースに乗るくらいにアレンジをして聞いてみればよくわかる事と思う。
その「美しさ」は、胸をかきむしるような「哀感」を込め、聞く人の涙を誘う。
「優しさ」とは「憂い」だったのだと、その時気づかされるのだ。


彼は幼少期から「想像を絶する」バイオリンのレッスンを受けてきた。
物心つくころには弓を引き、中学に入るころには東京で「一人暮らし」をしながらレッスンに通った。
高校進学で音楽専門高を受験するが、「合格確定」とまでいえる成績を出しながらも、惜しくも落選。
普通高に進学し、大学では法学部に進むが、途中自主退学している。
故郷の長崎に帰り「グレープ」という「男性デュオ」を結成、程なく「精霊流し」の大ヒットによりメジャーとなる。

「クラシック」を道半ばにして諦め、音楽との「絆」を切ることができなかった彼は、当時の「フォークブーム」の中で、その才能を開花させた。
あとはご存知の通りの活躍を続けている。


「クラシック」の修行で培われた彼の「音楽センス」は、「偏見」のように聞こえるかもしれないが、他の「フォークの先駆者」たちとは、少しだけ「色」が違っているように思える。
彼自らが「フォークではなく新しい音楽「ニューミュージック」である」と話しているように、彼の作品は時間を経る中で、その色合いを変化させて行く。

「グレープ」解散後のソロアルバム「帰去来」で、その傾向はすでに発揮されていて、中でも「胡桃の日」などはもう、まったくの「ハードロック」そのもののアレンジがなされている。
「詩」そのものの「情緒性」と、曲の「ハードな雰囲気」のマッチングを秀逸な「マリンバ・テクニック」が埋めているこの曲は、初期の「代表作のひとつ」といえ、コンサートでも数多く使われている。

「インストルメンタル」の分野に関しては、ご存知「北の国から」「オレゴンから愛」の挿入歌等を聞いていただければお分かりになる通りであり、その実力は決して「本業」の作曲家たちと比肩して劣るべきものではない。
「ハリウッドから作曲の依頼があった」とは本人の弁であるが、実現はしていないようだが、それも「ありえるかな」と思われる。


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2007年1月23日 (火)

「さだ」という名の作品達5

「ステレオ・セット」…「さだ」という人を「モノ」に例えるならば、私はそんな感想を持つだろう。
人の「喜怒哀楽」をピック・アップし、それらを「増幅」して「音」として提供してくれる」そんな存在。

「レコードプレーヤー」や「CDプレーヤー」などに当たるのが「感性」であり、
「増幅」し「整調」し「色づけ」するのが「アンプ」である。
そして、それを「提供する」のが「スピーカー」…つまり「声」ということになる。


あの独特な「ハイトーン」っぽい声が「さだ嫌い」にとっての、大きな理由の一つらしい。
眼鏡をかけて(彼は近眼では無く「遠視」で、眼鏡で矯正しないと譜面が読めないのである)ギターを抱えながら歌う姿が「オタクっぽーい」と思われるのか、それに「輪をかけて」の、あの「ハイトーン」である。

それに加えて(さだファンの人、ゴメンね!)「精霊…」「関白」「防人」であるから、若い女性(?)から「オタクの烙印」を押されそうになるのは理解できないでもないが、彼の「スタイル」自体がたまたま「そういうもの」なのであって、特に「戦略的構想」に基づいているわけではない(フォローになってないか)。

以前にコンサートで自作の「雨やどり」を題材に
これは「谷村新司」には歌えない…「雨やどりチャンピオン!」」と茶化し、
それはぁーまだぁ(重たい声で)」と「吹いて」いたことがあるが、しかしまさしくその通り。
さだの「ハイトーン」は、彼の作品をよくひきたてている。


「ひき潮」「天までとどけ」「桜散る」など、高音の伸びを大事にした曲や
「みるくは風になった」などのせつせつと歌い上げる曲、
「夢しだれ」「胡桃の日」「修二会」などのハードな曲もあり、
さだの「百貨店的才能」は留まるところを知らない。

最近は小説を書き、それも「映画化」を果たすという「偉業」を成し遂げ、
テレビや映画で「役者」にも挑戦し(主役として映画出演を果たしたこともある:イカロスの翼)。
今年の「お正月」には「いく年くる年」の「後番組」として「年の初めはさだまさし」という番組がNHKで放送されている(内容に関してはあえて伏せる(笑))。


正直に言ってしまえば「この年になるまで」さだの歌を聞きつづけることが出来るとは考えも及ばなかった。
彼自身の「才能」の豊富さが、これを可能としてきたのは言うまでも無い。

しんどいときに涙して聞いていたときもあったし、車の中に流れるステレオといっしょに歌っていたこともあった。
なんとなんと「三十年」のお付き合いだ
凄いものだと、改めて感心する。

書き足りないことは「山のように」ある。
私の三十年の月日の重なりと、彼のもつ「エピソード」には暇が無いから、それをブログに出すだけでも大変なことになってしまう。
今回はこれでお仕舞い!。


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2007年1月25日 (木)

I miss you

「1986年4月8日」
この日付けをみて「すぐに」何の日か言える人は、きっと心に深い傷を負ったまま生き続けている人だろう。
この日は一人の少女の「18歳の命日」である。

1984年。
世間が「バブル」景気に浮かれ飛んでいる頃、私は沈鬱な気持ちでいた。
二年前に発症した病気は、未だにその「回復」を知らず、
思うに任せない状態の中、苛立ちと不安が心に去来し続けていた。

「晴れやかさ」とは無縁の二十歳の年、私はテレビの向こう側で、少女との「邂逅」を果たすことになる。


チョコレートのCMだった。

坂道のてっぺんでバスを待つ少女。
坂道の向こう側から、ゆっくりとバスが立ち現れてくる。

テニスコートでテニスに興じる彼女。
高原での「出会い」の時間が綴られる。

彼女はこちらを振り返り、笑顔で手を振る。
「ありがとう」を込めながらの「さよなら」の仕草だろうか…。


覚えていらっしゃる方もいるかもしれない。
私はこのCMが気になって仕方が無くなった。

「女性アイドル」が気になりだしたのは「高校生くらい」だったと思う。
言ってみれば「等身大」の異性でなければ「ファン」として認識できなかったのだろう。
中学時代は「年上」の彼女達だったから、意識の外だったということだ。

「気に入っては離れ」の繰り返しの、浮気な「ファン」で「この娘でなければ駄目!」という人は現れてこなかった。
「彼女」と会ったときもそうだったが、しかし「何か」が違う気がしていた。


「憂い」
そう「憂いの表情」が、彼女にはあった。
どんなにか「にこやかに」微笑んでいたとしても、その「瞬間」からうつりゆく「影」のようなもの。
その「影」の部分が、どこか私自身が「抱えていた」心情とシンクロして響いたのである。

…彼女のことを調べるのに「ウィキペディア」で、検索をしてみた。
彼女の生い立ちが「克明に」書かれているのに驚かされたが、全体を通じて感じたのは彼女自身が「大変な努力家」であって、なおかつ「目標達成に対して積極的な思考の持ち主」であると感じた。
彼女自身が「いいかげんな仕事」をするのが嫌いな人物であったろう事は想像に固くない。

彼女の「懸命さ」は、アイドルとして「振舞う」ことに、どのような「影響」を及ぼして行ったのだろうか?。
「商品」としての「自分」を、おそらくは良く「知っていた」であろう彼女は、「大人の世界」芸能界の中を「分析して」しまえたことだろう。
「次のステップ」として「23歳での結婚」をたびたび口にしていたそうだが、彼女の中では「人生の設計図」が出来あがっていたのに違いない。
あの「山口百恵」さんのように「鮮やかな幕引き」を望んでいたのだ、とおもう。

彼女の「憂い」は「懸命に生きることへの決意の顔」だと思う。
およそ「アイドルに似合わない」その表情が、自分の奥底から涌き出てくる「生きる」という事への「渇望」と同調していたのだ、と、今になるとそう思える。


彼女を「横目」で見ながら、密かに想っていた私の「気持ち」を、粉々に打ち砕いたのも、彼女自身での事だった。
彼女が「選んだ」のは「自分を粉々にする」という決断だった。

(注)今調べてみてわかったことだが、彼女はその前に一度「未遂」をしている。
「精神状態が著しく不安定」だったことは想像に固くない。

一報を聞き、空白の頭の中に浮かんでいたのは「何故?」の一言だけだった。
時間が経つにつれ自分の中にあった「彼女の存在」が小さくは無いことに気付き、打ちのめされる思いに知らず知らずに涙がこぼれてきた。

彼女の「足跡」を辿るためにCMの「ロケ地」を探したこともある。
(実は現在でも探している。北軽井沢周辺らしいが、誰か知りませんか?)
「突然いなくなってしまう」ということは、こんなふうに辛く感じるものなのか?。
彼女になんら罪は無いけれど、やるせなさは数年間残り続けた。


桜咲く4月の頃になると、彼女のことを思い出してしまう。
事件のことは、もう遠い過去の事に思えるから、今ではどうということは無いが、
「彼女が生きた時間」と、その出会いというものの歴史を、簡単に忘れることは出来ないし、また忘れたくは無い。

そして「私自身が」こうやって生き続けている、ということは
「彼女の人生の延長線上にある」ことなのだ、と密かに思ってもいる。

「Yukko」…岡田有希子は、今でも私の「プラットフォーム」のひとつとなりつづけている。
人との出会いとはそういうものなのよ」と彼女は天国で言ってくれているに違いない。


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