天使が降りてくる夜は

…「晴さんたち」が米国に帰って、なんとなく寂しくなった。 私の倉庫(アトリエ)には、描きかけの絵が待っているんだけど…なんとなく、戻りたくない。 …今年の夏が暑かった分、冬の足音がなんとなく忙しく聞こえる感じがする。 一昨日は雪が降った。 御代田(みよた)のアトリエも、もう冬越えの仕度を始めなければいけない。 …でも、気持ちとは裏腹に、どうにも絵筆を持つ気になれないんだな(溜息)…。 小諸の自宅(いえ)で過ごしていると、薪ストーブの前で膝を抱えたまま、炎が揺れ動いているのを見ているだけになる。 「作品作りに良いかも?」と、ウッドフロアの大きなワンルームだけがあるような家を建てたけれど…こんなときには、ちょっと広すぎるな?、って感じる。 昨日迄は懐かしい顔が出たり入ったりしてた部屋だけれど、人気が一気に無くなると、こんなにも部屋が広いんだ?。 キッチンのシンクに浸かっているコーヒーカップも洗わなきゃいけない…でも、カップの縁についてる口紅の色さえ、どうにも恋しく感じちゃうんだよね…。 「…ひとりって…やっぱり、嫌(や)だな…」 …そう呟くと、ストーブの中でパチン、と薪が爆ぜる音がした。 「…Anji…再(ま)た会いたいよ…」 …二十歳の夏のこと…私は「N.Y」に居た。 在籍していた美術学校の留学生として、私が幸運にも推薦(えら)ばれたからだ。 英語もまともに話せない日本の「田舎娘」を、CITYの人たちは暖かく受け入れてくれた。 …短い期間にもかかわらず、友達も出来た。 「KEI?…ケイはなんでもハッピー!、って言うんだね」 同じアパートに住んでいたクリスは、私に口癖のように聞いた。 …どんな絵を見てもハッピー!と騒いでいたわけじゃない。 でも、絵を見ると幸せな気分になるのは確かだし、私の描きたい絵も「ひとを幸せな気分にするもの」でありたい、と思っていたから。 …私は私なりに…は、晴さんからもらった大事な心得でもある。 クリスは同い年だけど、ちょっと年上に見える。 小諸の「かおる」ちゃんと、どこか似ているところがあった。 だから彼女と居ると不思議と寂しくなくって、二人はよく行動を共にしていた。 夏休みに入って、学校がオフになった。 クリスが「田舎に帰るんだけど、ケイも一緒にどう?」という。 日本に帰るのも大変だし、私は彼女に着いていくことに決めた。 広大な田園風景が広がる場所に建つ、大きな一軒家が彼女の家だった。 農家をしているらしい。 「…でも、朝ご飯はジャガイモばっかりだから、覚悟してね?」と彼女は笑う。 帰ってきたという安堵感が、明るい彼女の笑顔を輝かせていた。 「Hey! Anji?…どこに行くの?」 パタパタと、踵をふんづけたままの靴音が部屋に響き、女の子が両手を高く上げながら駆け込んできた。 「アンジー…お部屋に居なさいって言ったでしょ?」…クリスは少し困ったように眉間をひそめて彼女に言う。 彼女の後ろには、高齢の婦人が怪訝そうな顔をして立っていた。 「…この子はアンジー…私の妹よ」 クリスは彼女の肩を抱きながら言う。 「この子はね…その…生まれつきの障害があって…いろいろとね…」 クリスは言葉を濁すと、微笑んだ顔で彼女を見上げながら 「Anji…angel…天使からもらった名前なのに…彼女は翼が無いのよ」 一言彼女はそういうと、私を見てちょっとだけ笑って見せた。 初めての朝食は、クリスが言っていた通りで「ジャガイモのポタージュ」だった。 それにコーンフレークと煮豆と、少しの野菜サラダ。 あとは歯が少し痛くなるような、固いパン。 食卓に並んだのは、私を除けばクリスと、昨日見たおばあさん。 それに、がっちりした体つきで、無口なお父さんと、食事中も甲斐甲斐しく動き回っている「お母さん」。 「ねえ?クリス…アンジーはどうしたの?」 「ああ…彼女はね、まだ寝てるのよ」 「…みんなで食事しないの?」「…出来ないのよ…あの子はね…」 「クリス!…食事中だぞ…黙って食べなさい」 「サムお父さん」が、彼女を睨んで小さいが低い声で言った。 彼女は首をこごめて、右手にスプーンを持ったまま、両手を肩まで上げた。 「ごめんね!…また、あとでね」 クリスはそういうと、スープを残らず平らげ、階段を上がって自分の部屋に行ってしまった。 「…ねえKEI…私たちはあなたを喜んで歓迎してあげたいんだけど…」 口ごもるように、お母さんのハンナが言った。 「出来れば…あの子…アンジーのことはあまり聞かないで欲しいのよ…」「…」 「…それにね…あの子には何を言っても理解が出来ないの…彼女は自分の気持ちで動いてるだけなんだから」 ハンナはそういうと、食卓の皿をかたずけるとシンクに持っていった。 「ケイ?…気を悪くはしてないかしら?」 「気を悪くはしてないけど…疑問があるの…何故、私をここに連れてきたの?」 …私は、上手くは無い英語で、彼女に尋ねた。 彼女は首を横に二、三回振ると、アンジーのことね?と聞いた。 「私は…ここがあまり好きじゃないの…でも、家族を愛してないわけじゃないの…」 「家族の中ばかりに居ると、自分というものを見失ってしまいそうで…それでNYに出たのよ」 「…わからないわ、クリス…愛しているのなら…」 私の言葉を、クリスは途中で遮って言った。 「…だから、なのよ…絆は強いほどに、他の誰かを縛るもの…だからケイ!…あなたに来てもらったのよ」 「…クリス?」「私とまた、一緒にNYに帰ろう、って、あなたに言って欲しかったのよ…」 「…クリス」 「ケイ?…アンジーを…あの子を放っておける?…放っては置けないわ…でも、そうしなければ、私は飛べない気がするの!!…翼を無くしそうなのは、彼女だけじゃないのよ!」 彼女の視線が、私を射抜くように刺す。 身体を竦ませながらも、私の脳裏には、懐かしい「晴さん」の笑顔が映っていた。 「ケーコ?…平気?…キミはもっと強くならなくっちゃね」 何度も聴かされた言葉と、懐かしい、変らない笑顔。 私の目には、自然と涙が浮かんでいた。 …クリスはそれを見て、自分の気持ちを理解してくれたと感じたのか、私を強くハグした。 私は…これから先の同居生活が不安になっていた。 アンジーが食事を家族と食べることが出来ない理由は「薬」にあった。 彼女は生まれつき、脳の一部に欠損があり、そのために非常に情緒が不安定になる傾向があった。 知能そのものも同年代の子供に比べると著しく劣り、9才になるのに、2歳児ほどの知能しかないとのことだった。 そのため、一日に何度か服薬しなければいけないのだが、それを嫌う彼女は食事を摂ろうとしない。 それゆえに、かなり強引に食事をさせる必要があり、それを行っているのが祖母のマリーの役目なのだそうだ。 部屋に居ると、時折大きな「泣き声」が聞こえてくる。 アンジーの声だ。 薬を飲みたくなくて「うめき声」をあげ、抗っている。 やがて声は止み、その後に何回か苦しそうな咳が聞こえて、再び静かになる。 そんなとき、私は布団をかぶって、ただ声が止むのだけを待っていた。 3日目の夜のこと。 私は「この家を出よう」と決めた。 朝起きて、クリスにそう告げると、クリスは私の肩を抱いて「帰ろう?」と一言言った。 クリスがハンナにNYに帰ると告げると、わずかな言い合いはあったものの、最後はハンナが折れ 「15時に空港に連れて行ってあげるわ」と言った。 …暗闇の中、空港からのTAXIに乗った二人の口数は少なかった。 クリスはぼんやりとして、車のテールランプを空ろな目で見送っている。 私は下を向きながら、アンジーの姿ばかりを思い出し続けていた。 …結局…「あの日」のことを忘れ去るように、私はバイトを入れて忙しいだけのひと夏を過ごした。 ショップのフロアで子供の泣き声を聞いただけで、身体が硬直するのがわかった。 …辛い日々だった。 夏休みが終わり、学校が始まるころには記憶はずいぶんと薄れ、あの恐怖感は無くなっていた。 ただ…私は自分の中から「何か」がぽっかりと欠けてしまっているような気がして仕方が無かった。 …私にとっては…重度の障害を持つ子供を見たことすら始めてであったし、少ない時間とはいえ、同じ屋根の下で暮らすことなど想像もしていなかった。 何もかもが初めてのことで、私は深く現実を見ることも出来ないままに、ただ、目の前の「衝撃」だけを受け止めていた。 受け止めると同時に「何か」が、根元からごっそりと引き抜かれてしまったような気がしていたのだ。 …朝の寒さに秋を感じ始めていた、そんなときのこと。 同じクラスの「サリー」が「MoMAに行こうよ!」と誘いかけてきた。 「MoMA」は「ニューヨーク近代美術館」の愛称だ。 こちらに来てから何度も訪れた場所だけど、訪れるたびに新たな発見がある。 サリーのお目当ては「ポップアート」みたいなので、私はパスさせてもらって、常設の展示場に向かった。 「A・ワイエス」の作品があった。 まるで写真の広角レンズで撮られたような、ワイドな画面構成で、描かれているのは草原と、遠くに見える家と、そして草原に横たわり、遠くに見える家を求めるように見つめている女性の姿だ。 「クリスティ-ナの世界」というこの絵は、作者が住んでいた隣の家の、足が不自由な女性をモデルに描いた作品だ。 私は、その絵の前で金縛りにあったように動けなくなった。 理由はわかっていた。 「アンジー」の姿が、画中の「クリスティーナ」とダブって見えたからだ。 「二人の女性」は、確かに違う。 障害の種類も違うし、年齢も大きく違う。 ただ、二人は共通するように「家」を求めている、と思った。 …アンジーは「みんなと同じ食卓」に座ることを望んでいたんじゃないだろうか?。 ずっと家から出ることを許されず、同じ時間に薬を飲み、再びベッドで眠りにつく毎日…彼女はずっと家の中に居たけれど「家族」という「家」の中に入ることを許されていない。 「羽が生えたら…いいのにね」 ぽろぽろと、ただ涙が零れた。 「羽があれば、いくらでも好きなところに飛んでいけるのにね…アンジー!…」 私はただ泣き続けていた…他人が好奇の眼差しを送っていても…私を探していたサリーが、私を見つけるまで、私はただ、泣き続けていた…。 「…クリス…私、もう一度アンジーに会いたいの」 MoMAから帰ってきた次ぐ日、私はクリスに言った。 「短い時間で構わない…私、アンジーと過ごしたいのよ」 「ケイ?…どうしたのよ?」 「…アンジーと会って、話がしたい…いいえ、話が出来なくても構わないの…」 …私がそういうと、クリスは私をなだめるように、優しい目を向けて言った。 「ケイ…あなたは悪くないのよ?…私が無理にあなたを呼んだだけ…あなたが傷つくことなんて無いの!」 「…悪いのは私なのよ…私が逃げてただけなの…」「…クリス…待って…違うのよ」 「…私は心から彼女に会いたいだけなの…彼女のすべてを知ることは出来ないけど…一部でもいいから、私は彼女のことをもっと知っていたいのよ!」 そう私が言うと、彼女はハッとしながら小さく後ずさりをした。 口を押さえ、表情は驚きを示したまま変らない。 …やがて彼女は深く溜息をつくと、私に言った。 「ケイ?…私やっぱり大馬鹿だったわ」「クリス?」 「…ん…でもいい…わかったわ…今度の週末でどうかしら?」 バタバタと用意を済ませ、私たちの「里帰り」が始まった。 「ケイ?」「…何?」「…色々と有るかもしれないけど、私がちゃんと守るからね」「…?」 クリスはそういうと、片目をつぶって見せた。 「せめてもの罪滅ぼしよ」と、続けて彼女は言った。 …私は「帰ってきた」。 大きな「心の忘れ物」を取りに、アンジーに会いに。 …大きな「トランクバッグ」を、中古屋で買ってきて、身の回りに必要なものを放り込んだ。 私には全く不釣合いのバッグは、私の「決意の表れ」のつもりだった。 玄関で出迎えてくれたハンナは、私と、私の持ってきたバッグを見くらべて、少し呆れたような笑い顔をした。 「久しぶりね、ケイ…さあ、入って」 見覚えのあるリビングに通されると、そこにはアンジーと、にこりともしないままに彼女の横に座っているマリーの姿があった。 二人に挨拶をすると、アンジーもマリーも、ただ黙ったままだった。 黙ったまま、私を通り過ぎるように、遠くを見るように視線を漂わせていた。 「アンジーは…理解っているわね?…お義母さんは…」 ハンナはマリーを見ながら私に言う。 「働きすぎたのよ…疲れてしまったのね…」 …後でクリスが教えてくれたのだが、マリーはこの土地に夫と住み始めてから、死に物狂いで農園を開拓してきたのだという。 40を越えた頃、突然の夫の不幸とともに感情を失い始め、今はほとんど家族と会話もしないそうだ。 「父さんも、母さんも仕事で…家の中には私とマリーとアンジーだけ…小さいときには随分と境遇を恨んだものよ…」 …クリスはポツン、と最後に付け加えるように言った。 アンジーには会話能力はほとんど無い。 感情の喜怒哀楽はちゃんとあるのだが、それらは「アン・コントロール」であり、いつでも突発的だった。 それでも私は「彼女と会話するため」に、ここにやってきたのだ。 自分の「弱さ」から投げ出してしまった「真実」を知るために、ここに帰ってきた。 …そこで私は一計を思いついた。 「彼女と絵を通して会話してみよう!」と。 スケッチブックに様々なものを描いて、私はそれを見せながら彼女と話す。 大方の場合答えは得られないか、プイと横を向いたりしてどこかに行ってしまうのだが、機嫌が良い時には長い時間、私の「遊び」に付き合ってくれていた。 「アンジー?これは?」「…カップ」 「何に使うの?」「…薬」「…薬?」 そう言うとアンジーは、片手をパタパタと口に当てながら「薬、薬!」と何度も繰り返した。 「…そう、薬を飲むのね」 興奮し、薬と連呼しながら部屋中を走り回る孫の姿を、マリーはジッと片隅で眺めていた。 その顔に表情は表れない。 やがて、彼女はスッと立ち上がると部屋を出て行った。 部屋には騒ぎの止まらないアンジーと、私だけが取り残された。 「アンジー?…次の絵を描いたよ?」 彼女に何度か呼びかけると、疲れてしまったのか彼女は私のそばの床に座り込んだ。 上目づかいで、私を射るように見る。 「アンジー?…今度は動物さんだよ」「…?」 予め描いておいた「ネコ」の絵を見せた。 「ネコだよ?わかる?」「…ネコ?」 アンジーは少し考え込むような仕草をしたあと、窓から外を見た。 「見た!!」「見た?」 …そういうと彼女は外の一点を指差す。 そして繰り返し「見た!」と叫んだ。 「アンジー…コレを見たのね?」 私の問いに答えぬままに、彼女はずっと窓の外の風景を見ていたが、やがてくるり、と私のほうに引き返してくると、傍らの鉛筆を握り締め、私の描いた猫の絵をつつき始めた。 「アンジー…駄目よ!ネコが可愛そうでしょ?」 私がスケッチブックを裏返しても、彼女は執拗に鉛筆でそれを突いている。 …その姿はあまりにも懸命であり、私は寒気を覚えた。 結局彼女は鉛筆の芯が折れても未だ、スケッチブックを突き続けていた。 私は心の中にまたもや黒雲が大きく生まれてくるのを、感じないではいられなかった。 「ねえクリス?…アンジーは、その…動物とかを虐めたりするのかしら?」 クリスは吃驚した顔をして「彼女がそんなことしたの?」と聞き返した。 「…ううん、アンジーは虐めとか、そういうことはしない…というか「知らない」のね」 「知らない?」 クリスは座っている椅子に深く腰掛けると、話し始めた。 「あの子は細菌なんかに対しての免疫があまり無いの…だから食べ物も限定されてるし、薬を毎日飲み続けなきゃいけない…ペットだって飼えないのよ…外にもほとんど出られないから、動物と触れ合う機会なんて無かった…だから虐めようが無い、ってわけよ」 「…そうだったの」 「彼女は…本当にこの世界のことを知らないで生きてきたのよ…私は彼女を見て、この場所に居たらいけないんだ!って強く意識したのよ」 私は彼女に「この前の事件」について話した。 彼女は首をかしげていたが 「ま、あまり気にしないでよ、ケイ!」と陽気に言い、そして 「これからも色々有るわよ?…覚悟はいいかしら?」と片目をつぶりながら私に言った。 …寝室の窓から、たくさんの星が見えていた。 「東京じゃこんなに星は無かったわね」 降るような星空を見ていたら、私の記憶は自動的に故郷の「小諸」へと飛んでいった。 …たくさんの星が瞬いて、空は大きくて限りが無かった。 浅間山に真夜中に登山したとき見た、あの星空の海は、街の明かりを圧倒するかのように広大だったっけ。 「…けーこ?…どうしたの?」「…晴さん!?」 「晴さん…私、どうしてこんなことやってるんだろう?」「…こんなこと?」 「晴さんに憧れて、香苗先輩に憧れて…絵は好きだったけど、私「みんなと描くこと」が好きだった気がする」 「なのにどうして?…私、苦しいよ!…自分で決めたことだけど、すごく心が苦しい!」 「けーこ…僕たちはさ「楽しいのは当たり前」だと思い込みながら生きてるんだよ」「…当たり前?」 「うん…だから何か壁にぶつかったときに苦しむんだ…こんなはず無いのに!って」 「そして…それをみんな「不幸」とか「不運」とか言って片付けようとする…でも、違うんだよね」 「何かを創りだす、っていうことは、見たくない真実にも出会わなきゃいけないってこと…知らなければいけない、ってことだから」 「苦しい思いをしなきゃ、絵は描けないんですか?…私はそんなの嫌です!!」 「…けーこ?…僕は「苦しめ」なんて一言も言ってないよ…」「だって!!」 「楽しい時間も、苦しい時間も、同じように向き合う姿勢が大事だ、ってこと…どちらも差別しちゃいけないってこと…同じように経験し、同じように理解していくこと…僕らにはその必要があるんだよ?」 「…晴さん?」「…けーこ…もう少し、もう少しで届くんだ」「晴さん!!」 …空がぼんやりと赤く染まっていた。 私は窓にもたれたまま眠ってしまったらしい。 「…晴さん…わかんないよ…私は…私…」 ベッドに戻った私は、再び深い眠りについた。 起きてすぐに、昨日アンジーが突いたスケッチブックを手に取り、じっと眺めてみた。 無数の黒点が痛々しいスケッチブック…様々な想いがいっぺんに溢れ、私は思わずそれを抱きしめた。 「これはね、アンジー?…私の大好きな人たちと一緒に過ごしてきた、大事なものだったんだよ?…傷だらけになんてして欲しく無かったよ…」 …そう口にすると、涙が思わず溢れてきた。 「傷だらけに…して…欲しくなかった」 しゃくりあげながら、私はもう一度口にした。 そのときだった。 私の頭の片隅に、稲妻のように光る「何か」が走った気がした。 「傷だらけ…傷…大切なもの?」 私は思わず、抱えていたスケッチブックを押し出すように突き出してみた。 「そうだ…大切なんだ…だからこんなに」 …多くの黒点は、彼女の「大切さ」の証。 彼女なりの、大切さの表現。 彼女が突いたページをめくってみる。 私が描いた猫の絵の上にも、たくさんの点々が。 「ありのままに受け止めなきゃいけなかったんだ…私の常識だけじゃ不足だったんだ…彼女の…アンジーの世界は、私の生きてきた世界とは違う…私はそれを受け入れることが出来なくて逃げ出したんじゃないの!?」 「思うがままにさせてあげればいいんだ…私がそれを受け入れればいい」 …ひとつだけだか、私には彼女のことがわかった気がしていた。 彼女に再び差し出した絵は、今度は点じゃなくて「線」で真っ黒け(笑)。 しかし、本当に一生懸命に「真っ黒」にしていた。 「アンジー?楽しい?」そう聞くと、彼女は初めて大きく私に向かって笑ってくれた。 向日葵のような、大きな明るい笑顔だった。 私は「これ」を繰り返してみた。 すると「不思議な傾向」があるのに気付いた。 「真っ白な紙」では、彼女は何も書かない。 興味なさそうにどこかに行ってしまう。 私が何かを描いてあげると、反応があって、突いたり、やはり真っ黒にしてしまうのだ。 窓の外をみると、柵の先端に「一羽の鳥」がとまっているのが見えた 雀のような、小さな鳥だ。 即席で私は、それをスケッチする。 「フィンチ!」「…フィンチ」 「そうよ、小鳥よ…」「フィンチ…フィンチ!」 アンジーは興奮していた。 …そしてそのままいつものように「落書き」をしてしまうのだろうなぁ…そう思っていたのだが、予想に反し、彼女は私の描いた絵を、じっ、と見つめたまま動かなかった。 「アンジー?…面白いの?」…そう聞いても上の空だ。 暫くは真剣な面持ちで絵を見ていたが、やがて絵を手にしたまま、彼女は窓に駆け寄って、再び長い時間ずっと外を見ていた。 「ああ、アレね?」…クリスは夕飯の後で、私のベッドルームに来て話した。 「彼女はね、前からそうなの…鳥になりたいと思ってるんじゃないかしらね?」 「鳥になりたい?」「そりゃそうでしょうね…私も同じだったわよ」 クリスは向こうでは滅多に吸わないタバコを深く吸うと、煙を吐き出しながら言った。 「どんなに閉鎖的でも、我が家は我が家…NYに居たって心配しない日は無いわ…でもそれは私が思いやり深いからじゃなくて、あくまでも「気がかり」というだけなのよ」 「気がかりと、思いやりがあるとは違うの?」「違うわ」 私が少し混乱していると、彼女は笑いながら言った。 「ケイ…あなたも故郷のことを考えるでしょ?…どうしてるかな?って…でもそれは「今居る場所から見た風景」なの…帰らなきゃいけない、という義務感めいたものは無いわ…それが普通なのよ」 クリスは灰皿にタバコを押し付けると続けた。 「でも、ウチは違う…誰もが束縛されあって生きてるし、生きなきゃ暮らしていけないの…そして誰もが今の状況をベストだと信じてもいないのよ…」 「アンジーだってきっと同じなのよ…理解してるかどうかは知らないけど「感じて」いるんだと思う…」 「籠の鳥…ね…私も、アンジーも」 そういうとクリスは二本目のタバコに火を点けた。 お互い暫くは黙ったままだった。 「そうなんだろうか?」 …私はベッドの中で考える。 彼女は、すごく限定されてはいるけど、自分を不幸だなんて思ってはいないんじゃないか?。 嫌なことや苦しいことはあるけど、それは私たちだって同じはず…彼女だって自分の苦しみを甘受しながら生きてるんだ。 「…籠の鳥だなんて、私たちの勝手な言い訳なんじゃないのかしら?…私はそう思う」 私は思考を切って、眠りについた。 私は再び夢を見た。 中学校のときの私が、何処かで拾ってきた「翼」を両腕につけて、走り回ったりしてふざけてる。 「…あ、あれは雅一郎先輩のイタズラ道具だ」 用務員のオジサンが燃やし損ねたものを拾ったんだっけ。 …無邪気だったっけ…今でも「天然だな」と、学校では言われ続けてるけど、昔はそれに加えて無邪気だった。 何も考えなしで遊び続けてきたっけ…あの時は、羽が生えたみたいで、本当に飛べるみたいで…。 アンジー…あなたに「天使の羽」をあげたいな…。 私が「夢のスケッチブック」に描いたなら、あなたはきっと空を飛べるのに違いない。 嫌な薬も、もう飲まなくて良いんだからね…ずっと死ぬことは無いんだから、バイキンなんて関係無い!さ!。 …誰かの声が聞こえた。 目覚めてみると未だ真夜中らしく、真っ暗だった。 私は手元の明かりをつけ、音のするほうへと向かってみる。 最初に聞こえたのは、お父さんのサムの叫び声だった。 「母さん!母さん!!しっかりしろ!!…おい!目を開けてくれ!!!」 床の上で昏倒している、マリーの姿が目に飛び込んできた。 傍らではクリスとハンナが、真っ青な顔をして立ちすくんでいる。 アンジーの姿は無かった。 やがて…通報で駆けつけた救急車が彼女を乗せて病院へと向かう。 サムだけが付き添う形で、車に乗って闇夜の中へと出ていった。 あまりの唐突な出来事に、みな言葉を失っていた。 最初に口を開いたのはクリスだった。 「これから…どうするの?」 小さな声で、クリスはハンナに言った。 ハンナは小さく首を何度か横に振った後に「…そうね」とだけ言った。 「ケイ…困ったことになったわ…どうしたら…」 ハンナは泣き出さんばかりに苦しそうな顔で、私を見て言う。 「あの…アンジーをどうするの?」 私は彼女のことが真っ先に頭に浮かんだ。 二人は、ハッとして顔を見合わせた。 それは二人にとって「予想外」の疑問だったに違いなかった。 …私はそのまま、次の言葉を言うことが出来ないでいた。 結局…アンジーは、州の病院に収容されることになった。 マリーはそのまま、息を吹き返すことなく、静かな最後を迎えることになった。 彼女の葬儀を手伝い、あわただしく日々が過ぎて、何も考えられないままにNYに帰らなければいけない時期になった。 「空港まで、見送るわね」 少し痩せたクリスの笑顔が痛々しかった。 「私ね…やっぱり残ることにしたわ…絵は続けるけどね」 彼女は「いろいろあるからね」と言い、再び小さく笑った。 私はどうしても、笑顔を作ることは出来ないでいた。 NYに戻り、自分の部屋で荷物を開けると、一番奥のほうに、あのスケッチブックがあった。 ページをめくるたびに、アンジーの顔が、声が、頭の中に蘇ってくる。 自分が何も出来なかったような気がして、彼女に対して申し訳ないようで、私はスケッチブックを抱きしめ、一晩泣き通した。 「わからなかったよ!…何も出来なかったよ!…苦しいよ!晴さん!!」 今、猛烈に会いたい人との距離は、果てしなく遠い。 アンジーにも、晴さんにも会うことは出来ない…私は「ひとりぼっち」だった。 クリスはNYに戻ることは無かった。 しかし、私のアパートには何通もの手紙が届き、現況を事細かく教えてくれていた。 …地元の大学に入りなおしたこと、そこで絵を描き続けていること…BFも出来たこと、など。 …しかしアンジーのことについては、一言二言元気でいるということなどが綴られるだけで、具体的なことは何も知らせては貰えなかった。 学校での課題製作に本腰を入れないといけない時期が重なり、旅費を捻出することもままならぬまま、私はアンジーのいる病院へ足を運ぶことが出来ないでいた。 正直、心のどこかに引っかかっているものはあった。 彼女と実際に過ごした時間は短かったが、あの時私が感じ、知らなければいけなかったであろうことは大きなものであるような気がしていた。 アパートでスケッチブックを見るたびに「…何がしたかったんだろう?」という疑問が湧き、それを想像しては消えていくという繰り返しだった。 …やがて日本に帰る日がやって来た。 二年の月日はあまりにも短く、正直自分がどれくらい成長できたかもわからないままの帰国になった。 私は最後の「アメリカでの手紙」をクリスに送った。 「親愛なる友 クリスへ 二年の月日が過ぎ、日本へ帰らなければいけない日がやってきました。 あなたと出会い、あなたの家族と出会えたことは、私のアメリカでの二年間の中で、最高のメモリーです。 距離は離れてしまいますが、私たちが互いを忘れてしまわない限り、いつでも笑顔で会えると信じています。 …アンジーのこと、どうか日本へ帰っても伝えてください。 私はもっと彼女のことが知りたかった…興味などではなく、彼女が考えていることを、私も共有したかったのです。 そうすることで私も、彼女と同じ空を飛べるような気がしたのです。 いつの日か必ず、彼女に会いに帰ってきます。 もちろん…あなたと一緒に。 さようなら…いつの日か必ず戻ってきます。 約束します…あなたと永遠の友であるために。 KEI」                                                                   」   日本でのアドレスを書き入れ、私は手紙を投函した。 コトリ、と箱の底で音がしたとき、私はなぜか小さな寒気のようなものを背中に感じた。 …アメリカでの日々がまるで嘘のように、帰国した私は猛烈な勢いで作品を描いた。 卒業制作だ。 夜も日も無く、私は描き続けた。 3日描いて、一日寝るという、凄まじい毎日を過ごしていた。 幸いなことに、ほとんど手直しをしなくて良かったが、期限ギリギリまで粘っての完成となった。 そして、あわただしいままに卒業を迎えた。 元より東京で就職しながら絵を描くつもりは無かった。 故郷の小諸で、細々で良いから仕事をしながら、好きなテーマを描いていたかった。 「…子供相手に絵画教室でもやろうかな?」などと、想像を膨らませてもいた。 アメリカから帰国して半年が経過した頃だった。 エアメールが届いた…クリスからだった。 「親愛なるKEI 元気でいますか?…半年もの間、返事をかけなかったことを最初に謝るわ…ごめんなさい。 KEI?…驚かないで聞いて欲しいの …アンジーが…死んだわ。 突然の心不全だった…あっという間の出来事だった。 何をどうしていいかわからないままで…私は学校を休んで、精神的に不安定になった母さんに付き添ってたの。 父さんは自分の気持ちを口に出せないことにイライラしながらも、仕事をしてた。 飲まなかった夜のお酒も…飲み始めて…いろいろ大変だった。 とても狼狽してるの。 こんなときに、あなたがそばにいてくれたら、と本当に感じる。 でも…3ヶ月が過ぎて、少し安定してきたみたい。 ごめんなさい…でも、本当に大変だったの。 そして本当に驚いたの…アンジーの存在の大きさというものに、初めて気がついたみたいで。 「アンジーは天使だったのね」って、母さんが言ってた。 …なんとなく、今は私もわかる気がするの…彼女は天使だった…見守られていたのは私たちのほうかも?って。 肉親を二人もいっぺんに亡くして…父さんは辛そうにしてるわ。 だから私と母さんだけで、今は彼女を悼んでる。 でも…きっとすぐに父さんも元気になるはずよ。 KEI…本当に会いたいわ。 あなたと話がしたい…無理なお願いなのは理解してるけど…。                                」 …私は慌しく「機中の人」となり、アメリカに飛んだ。 機内でクリスからの手紙を再び開く。 頭の中は真っ白で…雪の日の野原のようで、大粒の雪がボタボタと落ちる音が、頭の中で響いていた。 空港で出迎えてくれた二人は、随分とやつれている感じだった。 「ケイ…会いたかった」 そう一言言ったきり、クリスは下を向きながら泣いていた。 ハンナに促され、ようやくクリスは車の中に入る。 私も彼女に続いて、車に乗り込んだ。 「…不思議なものよね」と、ハンナが言う。 「初めてケイを家に連れてきたとき、私はアンジーをあなたに会わせたくなかった…あなたに嫌な思いをさせたくないから…ううん、そうじゃないわ…私が「そう思われるのが嫌だった」からだわ」 ハンナは正面を向いたまま、淡々と言う。 「あの子に…謝らなきゃいけない…それだけじゃなく、私が彼女に謝ることは…生涯かけてしなければいけないんだわ」 彼女は独り言を呟くように話した。 私は亡羊とした頭で、彼女の言葉を聞いていた。 …クリスは下を向いたままで、家に着くまでずっと私の手を握り締めて離さなかった。 大きな土地にポツリとある懐かしい家は、心なしか前よりも小さく見えた。 木製の重厚なドアを開けると見えたリビングは、ガランとして静かだった。 奥の暖炉の上に、アンジーの写真が、祖母のマリーの写真と隣りあわせで置かれていた。 「良い写真だね…笑顔だもんね」 私はクリスに話しかけた。 クリスは小さくうなずくと「病院のね、感謝祭のときに撮ったのよ」と言った。 その夜は、クリスと枕を並べて、ずっと話し合った。 ほとんどの話は、アンジーとそれにまつわる話だった。 アンジーが小さかったときに、両親に代わって面倒を見たこと。 それが自分が成長し、彼女の障害がわかったことで将来が不安に思え始めてきた頃のことなど。 「クリス?…でも、それは仕方が無いわよ」「…ケイ…ありがとう」 「でもね?ケイ…あなたがここを訪ねてくれなければ…あの子に興味を示してくれなければ、私たちは…きっと、もっと落ち込んでいたわ…」 「クリス?」「何故なら…あなたが来てから、私たちはアンジーを「理解していないかも?」と思い始めたの」 「…何かに怖がったり、面倒くさがったりして、彼女を遠ざけ始めていたのかもしれないね、って…そう思い始めてた…だからなんとか病院から退院させて、近くの施設で毎日顔をあわせるようにして…って、そう考えていた…その矢先だったの」 「…電話が来て、あわててとんでいったけど…駄目だったわ…」「…」 「ケイ…あなたには感謝してるの…でも、もうひとつだけお願いがあるのよ」 「それは、何?」 …そう聞くと、クリスは大きく息を吸ってから言った。 「残念なことだけど…長い時間彼女と過ごしてきたのに、私たちは彼女の「本当の望み」がわからなかった…それを解き明かせるのは…ケイ?…あなただけだと思うのよ」「…私が?」 クリスは頷くと「あのスケッチブックは、彼女が残した最後の答えだと思う…短い時間だけど、あなたなら、彼女の思ってたことが理解できるんじゃないかと思う」 「…お願いよ、ケイ…私たちは前に歩いていきたいのよ!」 彼女は私の両手を握り、何度も振ると、じっ、と私の目を見た。 彼女の目には悲しみと同じくらいに、決意の力が見えた気がした。 …私は頷かざるを得なかった。 翌朝、私はクリスと二人で、アンジーのお墓に向かった。 小さな墓石に向かい、私は思わず手を合わせ合掌した。 「アンジー…来たよ…やっと来られたよ…」 一言呟くと、涙が閉じたまぶたを割るように、ぽろぽろと零れ落ち止まる事が無い。 ごめんね、と謝るたびに、新たな涙が生まれては落ちる。 泣き腫らした目が戻らないままに、私はクリスの運転する車に乗り、空港に向かった。 どうしても落とせない仕事を放り出してきたからだ。 「ケイ…あなたには負担になってしまうと思うけど…でも…」 「ううん…私だって同じ気持ちだよ?…だから…頑張ってみるよ」 …アンジーはもういない。 でも、短い時間でも私の中に彼女は宿っていると思いたい…。 「クリス?…わたしたち、きっと親友になれるよ!」 私はエレベーターで大きく手を振って言う。 …私流の「決意」と「約束の返事」だった。 スケッチブックと向かい合っていると、アンジーの姿が脳裏に浮かび上がってくる。 最初、ただうるさいと感じていた甲高い笑い声も、最後のほうでは「本当に嬉しいんだな」という反応として受け取ることが出来るようになると、むしろ嬉しかった。 日本に帰ってきて、3ヶ月が過ぎていた。 当初はあまりに突然の「サヨナラ」を受け止めきれずに、心が麻痺しているようで、仕事をこなしているときも「上の空」だった。 …不思議なことだけど、彼女がいなくなってからのほうが、彼女のことがよく理解できるような気がする。 前に誰かが言ってたけど 「嫌いだった親父だけど、死んでからのほうがアイツの気持ちはわかるようになったよ」 …彼の横顔の「寂しさ」の秘密が、今はなんとなくだけどわかる。 しかしそれでも「確かめたいこと」を、後になってから知るのは難しいことだ。 …私はスケッチブックを見ながら、ひとつ溜息をついた。 結局のところ、私が行ったのは「彼女の姿を描くこと」だった。 私が覚えている彼女の姿を、キャンバスの中に留めておきたかった、ということもある。 デッサンを繰り返し、時にスケッチブックを真っ黒にしながらも、彼女の仕草を描き続けた。 喜びや、嬉しさだけではない…怒りや、悲しみや、戸惑いを…激変し、突然現れた彼女の表情をみんな、描き出そうとしていた。 「どう?カット上がったかな?」 …そういうと、アトリエのドアを開け、のそり、と男の人が入ってくる。 地方紙の編集者の長森さんだ。 「はい、出来てます!」「そう?…どれどれ…うん、うん…」 無言で原稿を見ている時間は、緊張のひと時だ…やがて… 「うーん、よしよし…今回は、良し!…スランプはもう無いみたいだね」 「ありがとう…長さん!」「…正直心配してたからなぁ…こっちも嬉しいよ」 …長さん…長森さんには、私の身に起きた事を、みな話してある。 アンジーのことで落ち込んでいたときも、叱咤激励して、何とか原稿を上げさせてくれた。 あのときのことが無ければ、私は仕事を続けられていたかわからないくらいだ。 長森さんが、アトリエの傍らに置いてあった、アンジーのスケッチを見ながら言う。 「彼女は…幸せだったと思うよ…こんなにもたくさん自分を描いてもらえるんだからな」 私は小さく首を振る…自分でも、彼女を描くことが、彼女を理解してあげてることかどうかはわからないから。 長森さんは、うーん、と一言唸ると、頭を掻きながら言った。 「…実はさ…ケイちゃん…オレ、考えてることがあるんだよ」 「会議ではもう話は通してるし、構成部のほうとは具体的な話も行ってるんだけどね…ケイちゃん?「誌面」に顔を出してみないか?」 「…それは、どういうこと?」 「つまり…君の絵だけじゃなくて、君そのものを売り出せないか?って考えてるんだ」 「青天の霹靂」というのは、こういうのを言うのだろうか?。 …長森さんは続ける。 「君はどこかコケティッシュというか…天然ボケというか、他人を和ませる雰囲気に満ちている…その一方で感受性が高くて、繊細な線のイラストを描ける…それがまた、他人を和ませる…」 「オレも今まで色々な作家さんに会って来たけど…ほとんどの人が「自分の世界」を表現することに拘っていた…それは作家としての資質でもあるけど、同時に閉鎖的だということの裏返しでもある」 「君はそういう人たちと少し違うんだ…自分が吸収したことを、形を変えて表現できる…それは「優しさ」だ…君は大きな優しさを内包した作家なんだ」 長森さんは私に熱く語り続けた。 言葉はピンと来なかったけど、態度だけでも彼が本気であることは理解できた。 「…あ、あの…どうも突然で」「あ?そうだな…ちょっと喋り過ぎたな?」 彼はタバコを一本付けると、一度深く吸い込んでから、再び言った。 「とにかく…ケイちゃん?…やってみないか?…とりあえずは1ページで写真のみ…紹介記事ってことで行きたい!」 …私はさすがに逡巡した…地方紙とはいえ、部数は何万部というフリー雑誌なのだから。 「あ、でも長さん…私こんなですけど?」「あー、最初はバストアップだけで…全身は写さないし」 「…それに…君もプロだし、名前は売りたいでしょうが!?」「あ、はい…それはもう」「じゃ、決まりね!」 …一方的に話を切り上げると、それじゃ詳しい話は後で、と言い残して、原稿を抱えて帰って行った。 私は「なんかとんでもないことになったなぁ…」と思いながら、また溜息をついた。 それからが大変だった。 冊子を見る人は、私の顔写真を見て、それから私の描いたイラストを見る。 「へー?こんな娘が描いてるんだ?」という独り言を、実際に私は喫茶店で背中越しに聞いたことがある。 そのときは飲んでいたコーヒーの味がわからなくなるくらい緊張した。 紹介記事の次は、3ページ組の「対談」記事。 相手はS大教育学部の先生で、テーマは「風から生まれるもの」。 私が妖精たちの話をして、先生がそれを補足したり、伸ばしたりしてくれる。 …さすがは「先生の先生」だ!と思ったっけ(笑)。 そうそう!私のイラストの主なモチーフは「妖精」…これは晴さんの影響だと思われるけどね。 「…妖精たちも自然から生まれたわけですが…風から生まれた妖精もいるんですか?」 先生はウーム、と首をかしげると 「そうですねぇ…風と妖精というと、私は「ラ・シルフィード」というバレエ作品を思い出しますね」 「…バレエ、ですか?」「はい…ここではシルフィードという名の美しい妖精が出てきます」 「その妖精がある日、結婚を控えた若い男の前に現れ、彼を魅了して去っていきます」「…ハア」 「シルフィードも彼を愛してしまいます…結婚式の当日にシルフィードは再び現れて彼の指輪を抜き取ると、森の中に姿を消してしまいます…彼はそれを追って森に行きます」「…」 「彼に続いて森に入った占い師が、彼に「魔法のショール」を渡します…そのショールをシルフィードにかけると、彼女の羽が落ち、彼女は死んでしまうのです」「…え?」 「そして…彼はフィアンセが、自分が妖精を追っている間に他の男と結ばれたことを教会の鐘の音で知り、悲嘆のあまり息絶えてしまうのです」 「…はあ…つまり一時の気の迷いが元で、何もかも無くした男の物語、ということですね?」 「…それだと…何かワイドショーのネタみたいですが…当たらずとも外れてはいないでしょうね」 「…(笑)」「まあ…フィアンセの女性は占い師に「結婚相手が違うよ」と言われてたし、くっついた男はいわば「横恋慕」でしたから…これは占い師の「策略」といえるかもしれませんね」 「…策略(汗)」「ええ…実は横恋慕男から何か掴まされていたのかも知れないですけどね」 「そうですかぁ…風はやっぱり気まぐれなのかなぁ?」 「そうかもしれないですね…それと風の存在は「人の心を変える」…気まぐれに姿を変えるゆえ、追いかける人の心を掴んで離さないのかも知れないですね」 …先生はそういうと静かに微笑んだ。 …取材が終わり、少し食事でも?と、長さんが場所を用意してくれた。 イタリアンレストランの片隅で、私たち3人は食事をしながら談笑した。 「先生…さっき聞き損ねたんですけど「気まぐれゆえに追いかけたい」って、どういうことですか?」 私がそういうと、長さんと先生は顔を見合わせ、にやりと笑った。 「男というのは不思議なもので、女性にずっとそばにいて欲しいとも思うし…好いた女を振り向かせることに夢中になったりもするもんさ」 「女性もそれは変わらないんじゃないのかな?」 「…それはそうかも…知れないんですが(汗)…あのー…女性同士とか子供には?とか?(汗)」 「え!?」「…まさか…ケイちゃん…それでBFとか作らないとか?」 「違います(怒)!!…長さん?アンジーのことなんですよ!」 …私は「先生」に、今までの出来事をかいつまんで話した。 先生はそれを興味深く聞いてくれていたが 「中沢さん…それはキミが彼女に「恋をしちゃった」んだろうね」 「こ、恋、ですか?」「うん…性別や年齢は関係なく、ね」 「彼女…アンジー…ちゃん、は、中沢さんの前に現れた「シルフィード」だね」 「君の前で舞踊(おど)りを見せたシルフィード…背中に羽を持ち、軽々と宙を舞い、きらきらと輝くように笑う…」 「…君は「人間(ひと)として」最初彼女を見てた…だからその所業に「いたたまれなく」なり、目を背けた…でも、彼女の姿そのものを見つめなおしたとき…そのときから君は彼女に恋をしていたんだと思うよ」 「…恋?」「うん…」 「恋、ですか?」「…」 …先生の優しい笑顔が、ふいにボヤッ、と崩れた。 「ケイちゃん!?」 …どこかで長さんが私の名を呼んだ気がした。 その声は妙に遠くて…私の頭の中では「アンジーとの思い出」が走馬灯のようにグルグルと回っていた。 私は泣き続けていた。 声も出さずに、ただただ涙が両目から落ち続けていたのだという。 …私の中で「恋」という一文字が、心に焼きついてしまったように感じた。 彼女との時間が、もう「取り返しがつかない」ことだ、と、ふいに察してしまったのだ。 「わかんなかったです…先生…アンジーが何を私に言いたかったか、私、わからなかったです!」 …興味とかじゃなかったんだ…私は彼女を好きになっていたんだ。 彼女の見ているものを、一緒に見ていたかった。 彼女が教えたいことに、耳を傾けていたかったんだ。 「中沢さん…声が届かないことと、気持ちが通じないことは一緒じゃない…君はちゃんと、彼女と会話をしたんだ…絵という手段を使ってね…」 長さんは私の肩を抱いていてくれた。 先生はただ黙って、微笑んでいてくれた。 にぎやかなイタリアンレストランの片隅での出来事を、私は生涯忘れはしないだろうと思った。 翌日、アトリエに入った私は、スケッチをキャンバスに起こし始めた。 アンジーの背中には「羽」を描き入れた。 …コンテで描いては直すことを繰り返す。 「…ミカエルのように大きくはなく、キューピッドのように小さくもなく…」 独り言をつぶやきながらも、描いては消すを繰り返す。 やがて「こんなかな?」という「羽」が、アンジーの背中についた。 絵をじっ、と見てみる。 アンジーの姿を記憶からたどりながら、私はキャンバスに線を入れなおす。 「…違う…そうじゃない…もっと…」 彼女の動きを、彼女のしぐさを、そのままキャンバスに刻み付けたい。 奔放で、激しくて、汗の臭いのする姿そのままを…。 夜半に下書きが終わると、そのまま私は色を着けていった。 頭の中には、色の配置が完了していて、それに従って着色していけばよかった。 栗色の髪も、ダークブルーの瞳も…輝くルビーのようだった唇も…色をのせていく度に、彼女の姿が目の前に戻ってくるような感覚だった。 …朝日が差し込もうとする時、絵は完成した。 …それは不思議な感覚だった。 出来る限り忠実に彼女の姿を模写しようと努めたはずなのに、完成した絵を一見してみると、それは大きく印象が違う。 それでいながら、私の中のアンジーの姿と、それは相似でしかありえないのだ。 …私は「晴さん」の「いつかの言葉」を思い出していた。 「けーこ?…目に見えるものを、見えたように描かなくても良いんだよ?…見て感じたものを、そのままキャンバスに「返してあげるように」描けばいいんだ…そうすれば描かれた「もの」が喜んでくれるだろ?」 …そうなんだ…私はいつでもアンジーに会えるし、話だって出来るんだ。 彼女を描くことで、彼女は私のそばに来てくれる…ふたりでいられた時間は短かったけど、これからも彼女は私のそばに居てくれるんだ…彼女を描き続ける限り。 「アンジー…おはよう…」 再た会えたね?と私は「彼女」に向かって言う。 言葉はもう交わすことは出来ないけど「こころ」は交わすことが出来るようになった。 …「天使の絵」の姿を借りることで。 …季節が2つほど進んだころ…。 長さんが企画した私のコラム「けーこの天空時間(まいたいむ)」は、冊子の中で「読者支持№1」を獲得するまでのものとなっていた。 「モテモテだぞ、ケイちゃん!」と、長さんがニヤニヤしながらアトリエに入ってくる。 好評をかって、出版社からはなんと「イラスト入りの紀行本」まで出るというのだから(汗)。 私が各地の教会などを訪ねて、それをイラストにして紹介するという企画だ。 ホント…人生、何が起きるかわからないよね。 アンジーを基にして描いた「天使」は、どんどんとデフォルメされ、写実画から線の数が減り、ついには「イラスト」に変わっていってしまった。 …名前は同じ「アンジー」。 …イラストに「私自身」を描くときには、必ずどこかに「アンジー」を描くことに決めてる。 彼女にも、私と同じ風景を見せたいし、旅をさせたいから。 …重たい気分を払拭するように、よし!と声を上げてから、私はシンクの前に立った。 コーヒーカップを洗いながら、今までの人生を振り返ってみる。 …いろんな出会いがあって…私は今、こうやっている。 とても満ち足りた、幸せな気分でいるけど…アンジーのことを考えるたびに、胸の片隅が今でも痛い。 ふと目を上げて、吹き抜けの高窓を見る。 暗くなった空からは、ついにちらほらと雪が舞い始めた。 「アンジー?…春になったら、またキミのそばに行くよ…それまでは小鳥と遊んでいて頂戴ね?」 独り言を言ってみる。 …またパチン、と薪が爆ぜる音がした。 「FIN」

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